PROSERPINA

すばるのあとぼし#05

 騰蛇は、強い。

 世界中探しても、騰蛇に匹敵する大妖は数えるほどだろう。その力は同じ妖から畏れられ、もちろん人間からも恐怖された。地獄の業火を操り生命を消し炭にする人喰いの妖。ただそこに在るだけで発される妖気がすべての生き物を萎縮させる。歩くだけで鳥や虫や獣は逃げた。妖ですら同じ行動をとった。
 騰蛇は常に独りだった。周囲には生きているものは一つもなかった。食事を摂るために人里に下りるときだけ生き物を見ることができた。けれど、腹がくちくなるとまた生き物はいなくなる。地面に転がっているのは死体ばかりで、どうやったって騰蛇は輪の中に入れない。
 ずっと暖かいものが欲しかった。食べるときだけ暖かくなれたから、大昔、騰蛇はたくさんの人を殺していた。でもそのうち熱が冷めていくことに耐えられなくなって、どうせなら冷えきってしまおうと一本杉の山に籠もったのだ。稀に訪れる退治師を食べて飢えを凌ぐ生活が何百年と続き、寿命が尽きるのを待ち続けた。

 凍てついた騰蛇の前に晴明が現れたのは、そんなときだった。

 ある日、住処に人間が侵入したことに気づいて騰蛇は眠りから覚めた。山の結界が、退治師が訪れていると騒いでいる。人間にしてはずいぶん霊力が高い。さぞかし美味い人間なのだろう、と起き抜けの頭でぼんやりと考え、頂上の杉の根本で退治師が到着するのを待った。侵入されたとはいえ、騰蛇から出向く必要はない。退治師たちは皆騰蛇の調伏が目的なのだ。黙って待っていれば向こうのほうからやってくる。現れた人間どもは皆名乗りを上げたあとに座りこんでいる騰蛇に攻撃を仕掛けるが、騰蛇が億劫そうに反撃するだけでばたばたと死んでいくのだ。
 しかしその日、目覚めたばかりで腹は空いていたが、なぜだがあまり食欲がなかった。せっかくの上物を無駄にすることになるかもしれないと僅かに危惧し、もったいないなと考えた。今までは全部殺して食べていたけれど、今日は見逃してやってもいいかもしれない。そうしているうちに、退治師は騰蛇の前に現れた。
 二十代の青年だった。長い黒髪を首筋で一つに纏め、香を焚き染めた白練の狩衣を身につけている。呪具といえそうなものは首から下げた長い数珠くらいで、手には瓶子(へいし)を提げていた。眉を寄せた難しそうな顔をしている。ずいぶんと軽装だな、そんなに自分の力に自信があるのかと騰蛇は感心した。いったいどんな術を繰りだしてくるのかと眺めていると、騰蛇の予想を裏切って、青年は礼儀正しく一礼した。

「私の名は安倍晴明。(ぬし)よ、先触れのない訪問を許していただきたい」

 騰蛇は目を丸くして、その名乗りを聞いた。
 青年――若き日の晴明は妖気に怯むことなく近づいてくると、騰蛇の目の前で腰を下ろして、瓶子をどんと置いた。まさに目と鼻の先。騰蛇が本気を出せば、簡単に縊り殺せる位置だった。霊力の高い人間特有の、妖にしか嗅ぎとれない甘い匂いが香る。これが普段の騰蛇だったら空腹に任せて食べてしまっていただろう。けれども何の因果か、その日は食欲がなかった。
 運命というものが本当に存在しているのなら、それはきっと、このときに働いていたに違いない。
 騰蛇が地面の上に置かれた瓶子を見下ろしていると、晴明は懐から土器(かわらけ)を出した。しかも、二つも。一方を差し出され、面食らいながら受けとる。この退治師の意図が読めず、騰蛇は困惑しっぱなしだった。
 そうして、人間との初めての会話が始まったのだった。

「俺を殺しにきたのではないのか」

 率直に尋ねると、晴明は鼻で笑った。

「私は無謀な真似はしない性質でね。今日はお前と話をしにきた」

 話。騰蛇は黙りこくった。まったく縁のなかったことだ。そも、妖相手にだってそんなに会話をしたことはない。しかも大体が命乞いや呪詛の類だ。うまく話せる気はしなかった。
 晴明が騰蛇の持っていた土器に瓶子の中身を注ぐ。初めて嗅ぐ香りにさらに戸惑った。それが酒精であることも、そのときの騰蛇はまだ知らなかった。勧められるまま飲み干すと、果実のような味わいがさっぱりとした喉越しで胃に落ちていく。世の中には人間以外にもこんなに美味いものがあるのかと、騰蛇は驚いて代わりを注いでもらった。
 そうやって飲み交わしているうちに、晴明はずいと身を乗りだし、顔を近づけた。

「単刀直入に言おう。お前、私の式になれ」

 ぽろりと指から土器を落として、騰蛇は年若い退治師を見やった。

「話というのは、それか」
「そうだ」
「お前、俺が怖くないのか」
「人喰いのくせに人を襲わず隠遁している奴の、どこが怖いと? 不思議なことを聞くものだな」

 晴明は本当にわからないといった様子で首を捻った。

「確かにお前は人喰いだが、この山に入ってお前に喧嘩を売らない限りは我々にとって無害だ。お前なんかより、巷に蔓延っている魑魅魍魎のほうがよっぽど手強いし人々にとって恐ろしいだろうさ」

 晴明の返答は、騰蛇に猛烈な衝撃をもたらした。
 恐ろしくない。厭われ続けた身が、初めて肯定された。それも、被食者である人間自身によって。
 瞠目している騰蛇が落とした土器を拾いながら、晴明は続けた。

「なぜ絶食して隠居しているか知らないが、なにもしないで朽ち果てるよりは世の中に貢献したほうがよかろう? どうだ、私の力となってはくれないか。飯は出せんが、酒と茶は出せるぞ」

 土器を渡される。その拍子に、指が触れ合った。
 不思議なことに、その体温は今まで騰蛇が啜ってきたどの血潮や臓物よりも熱かった。この温度なら冷めないかもしれない。側にいたら自分も暖かくなれるかもしれない。そう思わせるほど、彼は熱に溢れていた。気づいたときにはすでに首を縦に振っており、式神の名をもらっていた。
 約四十年。晴明の傍らで過ごした時間は、それまで積み重ねてきた無味乾燥な何百年よりずっとずっと素晴らしかった。妖気を抑えるために変化を覚え、他者から必要とされる実感に喜びを覚えた。いつだって空腹だったが代わりに体は暖かく、騰蛇はついに孤独から解放された。
 しかし、本性を晒して怯えなかったのは、晴明ただ一人のみであった。
 ――いや、ここにもう一人。
 晴明の末孫、安倍氏の生き残り。騰蛇の知らない間に生まれていた、晴明の後継。晴明の遺言を果たすために持ちかけた、《百年》の相手。
 主は知っていたのだろうか。自らの孫が、騰蛇を恐れないことを。きっと知らないまでも確信していたに違いない。だから騰蛇の元に寄越し託した。そうとしか考えられない。晴明はそういう男だ。
 この子どもとならできるかもしれない。晴明と同じに、なんの気兼ねもなく連れ立って歩んでいくことが。互いに冷やさず暖め合っていくことが。

 それは、とても甘美な未来だった。

◆◆◆

「紅蓮だ」

 目の前の男が、昌浩の頬に指を這わせた。

「晴明が与えてくれた、俺だけの名だ。……俺の至宝だ。そう呼んでくれてもいい」

 人には有り得ない金眼の目尻が柔らかく緩む。何もかもが鮮やかな色をした男が、薄く微笑んだ。
 紅蓮。(くれない)の、(はす)。真紅の炎を操る彼に、その名は誂えたようによく似合っていた。

「紅蓮……」
「ああ」

 熱に浮かされたように昌浩は繰り返した。
 ……正直な、ところ。
 昨夜物の怪の《百年》の申し出を受けたのは、打算だった。自棄になっていたと言い換えてもいい。あのとき昌浩はただ家族の死因を探りたい一心だった。そのためなら最期に食されるという契約を呑むことも構わなかった。
 ――けれど、謎が解決したあとの百年をどう生きるかは、まったく考えていなかった。
 想像が、つかなかったから。
 でも、この男に――紅蓮に食べられるのであれば。その間の百年を過ごしていく方法も、苦もなく見つかる気がした。

「紅蓮、」

 莞爾として、彼は微笑んだ。

「百年経ったら、俺を食べてね」
「――ああ」

 紅蓮が笑う。それが嬉しくって、昌浩もまた、笑った。

◆◆◆

 赤目と青目の妖を逃がしてしまった失態を紅蓮は詫びたが、昌浩は責めずに紅蓮の胸を叩いた。

「勝手に動いた俺が悪かったんだよ。紅蓮を待つべきだったのに、一人で行ったから逃がしたんだ。二人でかかってたら、たぶん上手くいってたけどね」

 それに妖には手傷を負わせている。あまり遠くまでは逃げられないはずだ。それよりもと、顔を厳しくして昌浩は指さした。

「あの中にあるものを確かめたい」

 異臭のする墓を。
 紅蓮も、この山に墓があったことは知っていた。それが、まさか妖の(ねぐら)になっているとは考えていなかった。袂で鼻を押さえ、吐き気を堪えながら昌浩が近づいていこうとするのを庇い、紅蓮は自分が先に墓の玄室を覗きこんだ。
 妖の目は暗所でも昼間のように働く。紅蓮の目は――玄室の中の、髑髏の山を捉えた。散乱した、引き裂かれた衣服も。蠅の耳障りな重たい羽音が、肉と血の腐った甘い臭いを掻き回している。そして殆ど骨となった人間の成れの果てが、崩れた石棺の側に十数人分積まれていた。
 昌浩が紅蓮の手を強く握りしめる。彼は息を止めて、薄暗い墓の中を見、衣服を検分していた。
 だが、やがて昌浩はふるふると頭を振った。

「違う。みんなじゃない」
「なに?」

 あの夜に家族が身につけていた着物はここにない。昌浩は何度も確かめたけれど、服は普通の農民が着るようななんの変哲もないものばかりだった。昌浩は自分より頭三つ分は高い紅蓮を見上げて訊いた。

「紅蓮、村でみんなは見つけた?」
「いいや。村で遺体は見つからなかった。代わりに妖の臭いがしたから、それを追ってきた。そうしたらお前がここに、」
「……じゃあ、みんなは、どこに……」

 村人を洗脳して操ったのは、十中八九さっきの人喰いどもだ。安倍氏の大半は見鬼を持ち霊力を操る、人喰いが美味と賞する種類の人間。その遺体を食べるため、きっとここに持ち帰っていると思っていたのに。
 二人で顔を見合わせる。と、背後で枝を払う音がした。
 はっと振り向くと、そこには村人の一人が顔を真っ青にして立っていた。口をぱくぱくと開けて震えている。安倍氏に相談ごとを持ちかけたこともある、若い男だった。

「あっ……」

 昌浩が思わず一歩を踏み出す。その動作にびくりとして、男は悲鳴を上げると一目散にその場から逃げ出した。
 おそらく、山に入っていたあの男は先の戦いの音に気づいてここまで登ってきたのだろう。そして、見てしまった。異臭のする場所で、異様な気配を撒き散らす、異形と手を繋いでいるお尋ね者の姿を。
 きっと勘違いされている。それに見つかってしまっては、この地で動くこともままならなくなるに違いない。

「……どうしよう、紅蓮」

 紅蓮は難しい顔をして男が逃げた方向を睨みつけていたが、息を吐いて気持ちを切り替えた。

「ひとまずここから逃げる。妖どもはまだ山中にいるだろうが、村人がわんさかやってくるだろう今の状態では狩りにいけない。さきに遺体を探そう」
「……うん」
「村の中はひととおり検めたが、寺と神社を見ていないんだ。弔いなら寺だろう。いくぞ」

 紅蓮は瞬き程度の間で体を揺らめかせると、最初に会ったときと同じ物の怪姿へと変化した。墓から離れ、昌浩が登ってきたときとは反対の山道へ駆けていく。その背を追いながら、昌浩は言い知れぬ不安に唇を噛みしめていた。