PROSERPINA

すばるのあとぼし#04

 空を行けば、村に辿り着くまでには一刻もかからなかった。ゆっくりと高度を下げ、物の怪は里山に降りる。村からは見えない位置だ。物の怪の背から飛び降りると、また白い姿が陽炎に包まれて揺らめく。会ったときと同じ小さな体躯に戻り、物の怪はぶるぶると水を弾くように体を震わせた。昌浩は慣れない飛行で凝った体を解しながら、器用なもんだなあとその様に感心をしていた。
 ざっと見た感じでは、今のところ里山に人間は入っていないようだ。
 物の怪は昌浩を振り返った。

「お前、陰形の術は使えるか」
「うん、一応」
「ならよし。とりあえず俺が先行して探ってくるから、お前はここで術使って待ってろ。人が来ても動くなよ」

 面の割れている上に血眼で探されている昌浩は、潜入には不向きだ。拳を握りしめ、昌浩はこくりと頷いた。

「いい子だ」

 物の怪はあくどく笑うと、白い尾を一振りして歩きだした。山裾の落ち葉を踏みながら白い影が木々の合間に消えていくのを、一人残された昌浩はじっと見送っていた。
 久方ぶりの人里だ。一本杉の山に籠もって滅多に姿を現さない物の怪は、十五年ぶりに大勢の人間の体臭を嗅いだ。誰も彼もが美味そうだった。空きっ腹を抱えた腹の虫が切なく鳴く。その嗜好から数年絶食することも多い物の怪だったが、ご馳走を目の前にしても手出しできない現在の状況は拷問にも近かった。

(腹減ったなあ)

 木の陰に隠れて村の端まで辿り着いたところで、彼はため息をついた。何しろ、もう数十年は何も口にしていないのだ。
 晴明に調伏されてからは人を食べることは許されなかったし、十五年前に約定から解放されてからも山に登ってくるのは霊力を持たない徒人ばかりだった。昨日ついに上物が罠にかかったかと思えば、その子どもは晴明の孫の上にとんだゲテモノという始末。ほんの少しだけ舐めた血は、今でも物の怪の腹の中で暴れ回っている。昌浩の前ではやせ我慢したものの、空腹と腹痛の合わせ技にともすれば気が触れてしまいそうだ。

(こんなことならたまには山を下りといたほうがよかったかな)

 一人考えて、ひひひとあまり品のない笑いを零した。できるわけもないことを考えた自分がおかしかったのだ。
 最初で最後の主との約束は未だ物の怪の身を縛り続けている。しかし、実のところ、別段不快ではないのだ。
 が、不快でないにしろ意趣返しをしたいという感情はある。晴明の孫に《百年》を切り出したのはその一環だ。遺言は必ず果たすが、代わりに報酬を貰い受けるつもりだった。そのくらい許されるだろう。
 掌中の珠のように慈しんで、柔らかく甘く育て上げよう。灰汁抜きを施して弱火で煮詰めるのだ。《百年》が終わったとき、あの子どもはどんな味になるのだろうか。

(晴明、)

 悔しいか。悔しかったら生き返ってあの子どもを止めてみるがいい。俺はただ持ちかけただけで、選んだのはあの子どもだ。お前の孫だというのに、まったく馬鹿な選択をしたものだ。そしてお前もうつけ者だ。人間相手に殺されるなど、

「……まったく、馬鹿な話だ」

 薄く笑うと、物の怪は農道を横切って農具の合間に滑りこんだ。
 殺しても死にそうになかったあの男、安倍晴明が死ぬ? 想像もできなかった。晴明が創り上げた、晴明の姿をした式の言葉でもだ。晴明の死体を目にするまでは、どんな証を突きつけられようとも信じる気はなかった。
 物陰に隠れながら村の中心、安倍の屋敷が建っている方角へ進む。この村の地形はよく把握していた。なぜなら、十五年前までは物の怪もここに住んでいたのだから。
 田畑では多くの村人が農作業を行っていた。しかし開けた場所では、物の怪の白い体毛はあまりに目立ちすぎる。様子を伺いたいのは山々だったが、物の怪は見つかることを恐れて近づきはしなかった。
 村の気配は変に静寂が満ち、ぴりぴりとして空気に支配されている。無理もない。この村の祭祀の一切を取り仕切っていたのは、実質安倍の一族だった。村には神社も寺もあり住職や禰宜も存在してはいたが、安倍氏はそれらを取りまとめて全ての采配を振るっていた。妖祓いだけでなく作物の植え付け時期の判断や一年の吉凶を占うなどして、一族はここ一帯で強力な権力を保持していたと言ってもいい。その権力者の家を焼き討ちしたのだ。

(こういうのを下克上っていうのかね)

 だとしても有象無象の農民が不思議な術を操る一族に対してここまで纏まった行動をとって反逆するだろうか。それに理由がない。裏に何者かの意図が存在していると考えたほうが無難だった。
 六十年前に調伏されてからこの村で過ごした物の怪は、安倍の当主だった晴明が人間関係で苦労していたことも知っていた。十五年前と力関係が変わっていないのであれば、村で怪しいのは役人と庄屋連中だ。役人は頭の固い人間で、一族を妖術使いと罵って普段から失脚させようと暗躍していたし、庄屋は村の実権を安倍氏から自らの手に戻そうと画策していた。晴明は二者に対して気を使ってはいたものの、関係は良好とはいえなかった。先祖代々から続いた因縁のようなものだ。
 逆に寺社との関係は悪くなかった。良好と言ってもいい。物の怪は村の様子を探ったあとは、寺社へ向かうつもりだった。
 村の中心部は大人が働きに出かけていることも相まって人は疎らだった。小屋や家をそっと覗くと、子守をしている少女や縄を縒っている少年の姿が見える。子どもらは皆どこか落ちつかない、不安げな顔をしていた。
 ある民家を覗いている最中、背後からの足音に慌てて物の怪は近くに積まれた樽の陰に隠れた。幸い見咎められなかったらしい。一組の若い男女が戸口をくぐって行き、すぐ側にあった水瓶から柄杓で水を飲む。竈で煮炊きをしていた十二歳ほどの娘が鉄鍋の蓋を開けて味噌を落としつつ、おかえりと声をかけた。奥から五歳ほどの男の子も顔を出して、両親に駆け寄って抱きつく。

「おっとう、ばあちゃん昼になっても起きあがらんよ。寝とるー」

 父親が難しい顔をして俯いた。

「そうか……」

 夫婦はずいぶんと憔悴しているようだった。うっすらと目の下に隈ができている。周囲に気を配りながら、物の怪は聞き耳を立てた。

「昌浩兄ちゃん、まだ見つからないの?」

 娘の問いに、夫婦が息を呑んだ。「ああ、」とやや間を置いてから肯定が返る。「そっかあ……」と、弟が残念そうに声を落とした。その弟を元気づけるかのように、「へいちゃん、ばあちゃん起こしてきてくれる」と娘が優しく声をかけた。今度は元気よく返事をして、男の子は土間から上がって奥の間まで走っていく。娘は弟が祖母の元へ向かうのを見届けてから、沈んだ顔を両親へ向けた。

「ねえ、おっとさん、おっかさん、ほんとのこと話してくれない。一昨日なにがあったの」

 夫婦はだんまりを選んだようだった。顔を見合わせてから、気まずげに俯き手拭いで汗を拭く。娘はもどかしそうに、そんな両親に言い募った。

「火事だって皆に言われたけど、あの夜村中が変に騒がしかった。怖かった。火事じゃなくって、皆が怖かった。だってあの晩おかしかったもの」

 娘は一息にそこまで喋ると、少し言葉を切った。

「――あれはほんとに火事だったの?」

 夏だというのに、冷えた空気が流れる。ややあってから、母親の固い口調が聞こえた。

「……あれは火事だったんだよ」
「おっかさん!」
「前にも言ったとおり、それ以上のことはなかったんだ」

 娘が前掛けを握りしめる。怒りで顔を真っ赤にして、彼女は声を荒げた。

「じゃあなんで皆怖がってるのさ! 焼け跡にも近づこうとしないで、目逸らして畑仕事して、子どもを外に出さないようにして……ねえ、なにしたの? なにがあったの? ばあちゃんだって、あの晩帰ってきてからすっかり弱って寝込んじゃうなんて……あんなに元気だったのに」

「おとよ、」

 物の怪がそっと覗くと、泣きじゃくり始めた娘を母親がそっと抱きしめていた。娘は片手に小さなお守り袋を握りしめて、母親の背に縋りついている。物の怪は顔を引っこめると、親子をあとにまた忍び足で進み始めた。

(怖がっている、か)

 物の怪は最前の娘の言葉を思い返していた。なるほど、村を包んでいる不穏な空気の大本はその感情なわけだ。しかし解せない。生き残りの昌浩へは犬を放って山狩りするほどの憎悪を村中で滾らせていたというのに、なぜその家族である安倍氏が滅ぼされたことに対して微塵も喜びを見せていないのか。彼らがなぜ今まで散々世話になった安倍家に対して憎しみを抱いたのかは物の怪の知るところではないが、普通だったら喜ぶところだろう。それが第三者からは暗愚な行動の結末として見えたとしても。

 ――乖離しているのだ。行動と感情が。辻褄が合わない。

 村人たちの陥っている気持ち悪さや不安感が物の怪にも伝染してくるような気がする。そんなとき、灰の匂いが風に乗ってやってきた。
 物の怪は草むらから飛び出すと、煤けた門をくぐって土塀に囲まれた敷地へと飛びこんだ。安倍の一族が住まっていた地。広大な敷地に比べると小さな屋敷は中央にあり、その周りは庭園や小さな森によって囲まれている。十五年前に離れたきり一度も訪れたことはなかったけれど、物の怪の網膜にはしっかりと昔懐かしい景色が刻まれていた。
 だのに、今物の怪が目にしたものは、記憶している情景とは程遠いものだった。
 焼けて葉が落ち背高な棒っきれとなった木々の向こうに、真っ黒に崩れた柱と梁の山が見える。床の高い京風の屋敷は跡形もない。全焼だった。

「晴明……」

 思わず口にしたかつての主の名は、みっともなく掠れていた。
 平衡感覚が根こそぎ奪われていく。動揺しているのだと自覚するまで、少々の時間を要した。
 ……どんなに否定しようと、本当は、心の奥底ではわかっていたのだ。
 晴明があんな式を寄越して、遺言を告げて、自らの後継者を託していった昨夜――晴明の死を否定しつつも、どこかで諦めている自分がいた。いくら化け物じみた男だといっても、晴明だって人間には変わりがないのだから。殺されたら、死ぬのだ。だからいつか死んでしまうこともずっと昔に覚悟していた。その覚悟が、物の怪を冷静たらしめていた。
 だが、ただ一点。寿命でもなく、妖に殺されたのでもなく、同じ人間に死に至らしめられたのだという事実を、認識したくなかった。

 なぜって、それはあまりにも――残酷な仕打ちではないのか。

 青年時、晴明は確かに人間嫌いなところがあった。けれど年を経り家族が増えていくに連れ、その傾向は形を潜めていった。最後には晴明は食えない好々爺となって、物の怪に別れを告げたのだ。彼の生涯は他人に悪意を向けられることも多かったが、それ以上に周囲を助け、感謝されてきた。彼自身も他人に愛情を抱けるようになったのだ。すぐ側に寄り添っていたからわかる。晴明はけして、裏切りによって命を落としていい人間ではない。
 目眩で尻餅をつきそうになるのを四つ足で踏ん張り、物の怪は地面を蹴った。焼け落ちた垣根を飛び越え、足の裏が煤で真っ黒になるのも構わず進む。見る影もない不格好な黒い残骸の山まで辿り着くと、遺体がないかと忙しなく視線を巡らした。

「晴明……どこだ……」

 村人によって運ばれてしまったのだろうか。安倍の一族の遺体はどこにも見当たらなかった。瓦礫の中に埋まっているのかもしれないが、目立たないよう掘り起こすには時間が悪いし、なにより今の物の怪では不可能だ。
もし運ばれているのだとしたら、辱められていやしないだろうか。
 酷く不安になって、物の怪はその場から駆けだそうとした。そのときだった。
 真っ黒に焦げた垣根の一つから、濃い臭気がした。
 物の怪は足を止め、真っ赤な瞳を見開いて凝視した。ゆっくりと垣根に近づき、鼻面を寄せる。知らない臭い――だが正体を推測することはできる。

「妖……」

 すうっと細まった紅の瞳が剣呑に煌めいた。紛れもない妖力の残滓。そこから立ち上る悪意の香り。
 村人の突然の翻意には、やはり黒幕がいるのだ。
 残り香はまだ新しかった。臭いを追っていけば、一連の騒動を操っている者に辿り着くに違いない。物の怪は姿を見られぬよう最大限に注意を払いながら、その場をゆっくりと後にした。

◆◆◆

 気温が上がるにつれ、蝉の声が大きくなっていく。
 昌浩は大きな木の陰に隠れながらそっとため息を吐いた。陰形の術を行使している最中は極力物音を立ててはいけないからだ。姿が見えなくとも音と匂いで見つかる場合がある。ただし今回は人間の目を惑わしさえすればよいのだから、妖相手よりは気楽なものだ。
 物の怪と別れてから既に半刻以上経っている。その間、昌浩の潜伏しているこの里山で何人か人間を見かけていた。術で隠れている彼に誰も気づくことはなかったが、視界に人間が入るたびに昌浩の心臓がどくどくと鼓動を早めた。火付けのための細い枯れ枝を拾ったり、木々の下枝を鉈で払ったりと、彼らは普段と何一つ変わらない仕事をしているだけなのに。
 隣人に直接ぶつけられた憎悪は、思っていたよりもずっと昌浩の心を打ちのめしていたらしい。じんわりと額に滲む汗を拭う。昌浩は暇を持て余していた。物の怪に今すぐ帰ってきてほしかった。抑えきれない不安と孤独がその身を苛んでいた。
 知り尽くしている地元でどうしてこんなに恐怖にかられるのだろう。微かに震えだした指先を握りしめ、昌浩は気息を整えようと深く息を吸った。祖父に教えられたとおりに、気を循環させるための特殊な呼吸法を始める。
 胡座をかいた地面から気を吸い上げ体の中心に通すと、中継する丹田がじんわりと熱を帯び始めた。頭のてっぺんから気を放出して自然に還えしながら、また地面から気を取り込み循環させる。そうしていくたびに、周囲の気に昌浩が馴染んでいく。地中の小さな虫、草の一本一本、小動物に至るまでつぶさに把握できるようになる。一方で意識は希薄となり、鋭くなっていく感覚のすべてを受け入れようと働いていた。拡張された敏感な指先が伸びていく。

 その先端が、異質な何かに触れた。
 自然の一部ではあるが、性質を異とするもの。――負の力。

 ばちりと目を見開いて、昌浩は立ち上がった。陰形の術がその拍子に解けかける。
 慌てて呪文を唱え直して綻びを修正するが、足は脳に直接叩きこまれた情報を確かめるべく勝手に前に進んでいた。四丈ばかり離れた樫の木の虚を覗きこむ。その中に、昌浩が感知したものがあった。
 どろりとした、油のようにてらてらと光る真っ黒な液体。
 これは、妖の残滓だ。
 安倍氏の住まうこの地に悪性の妖は存在しない。こんな人里近くまで来ていたのなら、一族の誰かが気づいたはずだ。残留した妖力の量と劣化具合からしても、この跡を残した妖は事件の前に訪れたのではない。事件のあと、もしくは最中にこの場を訪れたのだ。
 ひどく喉が乾いて、昌浩は唾を飲み下した。根拠のない勘がけたたましく警鐘を打ち鳴らしている。認めたくない想像で頭の中はいっぱいだった。
 もし――もし、痕跡を残していった妖が、安倍氏の滅亡に関係していたら?
 一昨日の晩、村人の様子は明らかにおかしかった。だが妖が村人を操っていたのならば説明がつく。直前まで普段どおり振る舞いながらも、突如変貌して襲いかかってきたあの夜。この妖が村人たちを操り、一族を滅亡に追いこんだのではなかろうか。
 妖にとって安倍氏はこの国の中でもかなり邪魔な存在だ。一族を排除しようとする妖が何匹もいることを昌浩は知っている。今までそれを幾度となく退け、安倍氏は繁栄を続けてきたが、――ついに、負けてしまったのだとしたら。
 すべては想像にすぎない。けれども昌浩の勘は、それが限りなく真実に近いと囁いていた。
 粘液に手を翳して妖力を探る。本体へと続く細い糸を無理矢理に手繰り寄せる。真実へ至る道を見つけだした昌浩は、胸元をきつく握りしめて歩きだした。

 できるだけ音を立てないようにゆっくりと山を登る。陰形の術を保ちながら妖力を辿っていくのは大変に骨の折れる作業だった。こういうとき式がいれば代わりに妖を見つけてもらうこともできるのだが、生憎昌浩は式を持っていない。(しまった、)そこまで考えて、昌浩は自らの失態に気づいた。
 見つけることばかりに集中して、見つけたあとのことを考えていなかったのだ。身のこなしににはあまり自信がないし、調伏するための道具はなにも持ってきていないため、もし戦闘になれば単純に霊力頼みになる。
 せめて物の怪と共に来るべきだった。しかし、ようやく見つけた手がかりなのだ。ここまで来たら進むしかない。
 決意を新たにしながら山頂近くまで辿り着くと、昌浩は周囲をぐるりと見回した。妖の気配はすぐそこにまで近づいている。滅多な物音はもう立てられない。慎重に足を踏み出して、昌浩は妖気の居所を探った。
 なるべく落ち葉や枝を踏まないよう、じりじりと進む。妖気だけでなく、酷い臭気を嗅ぎとったのは間もなくだった。
 この山には何百年以上も前に造られた貴人の墓がある。切り出された石を積み上げてできた横穴の空間に棺を入れ、上から丸く土を被せた大昔の墓だ。何度も訪れたわけではないが、祖父に連れられて見に来たことはある。なんの怨念も未練もない、ただの墓だった。その墓穴が、今や腐った肉の匂いを一帯に撒き散らしている。
 妖気もその中にあった。緊張と暑さで流れ出る汗を拭い、木の陰からそっと墓を覗く。妖は籠もったまま、出てくる気配がない。
 ここが奴の根城、というわけだ。臭いの正体がなんであるかはあまり想像したくなかった。いったん下山して、気取られないところで物の怪を呼んできたほうがいいかもしれない。昼のうちならあまり動かないだろう。そう判断して昌浩は踵を返した。

 振り向いたその瞬間に、視界が真っ黒に塗り潰される。

 彼は上がりそうになった悲鳴を辛うじて両手で押さえつけ、木に背中を預けた。いつからそこにいたのか、目の前には羆ほどの大きさの黒い妖が、体中からあの粘液を零して立っていた。犬のような長い鼻面でふんふんと匂いを嗅いでいる。完全に気配を絶っているのか、この至近距離でもまったく妖気を感じとることができない。陰形の術はまだ解けていなかった。
 妖は人間の匂いに気づいてはいるが、眼前にいるとは思っていないようだ。その証拠に、妖の赤い目玉は空を彷徨っている。昌浩は息を殺しながら、今すぐ逃げ出したくなる衝動と必死に戦っていた。心臓が耳のそばで早鐘のように脈打ち、口元を押さえている手が震え始める。
 この距離だ。気づかれたら、昌浩の命はいとも簡単に刈り取られるだろう。短い呪を唱えることもできなくはないが、一撃で倒しきるには威力が足りない。かといって長い呪では唱えているうちにやられる。それに、墓の中には昌浩が追ってきた妖がまだいるのだ。二匹を丸腰で相手する余裕などないし、またこの状態で逃げては術が解けてしまうかもしれない。今取れる最善の一手は、妖が離れるまでこのままじっと待ち続けることだけだった。

 ――やがて、永遠にも感じられる長い時間が終わった。

 妖が首を傾げ、重い足音を立てて離れていく。目線だけでそれを確認し、昌浩は妖の間合いから外れたところでじりと動いた。

「ひとのにおいがするぞ」

 奇妙に歪んだ声が響く。あの妖が発しているのだ。なおもじりじりと動いて間合いを外しながら、いかなる攻撃にも反応できるように刀印を組む。妖はまだきょろきょろとして、人の気配を探していた。

「においがするにおいがするにおいがする」

 妖の動きがぴたりと止まった。同時に脳裏を猛烈に嫌な予感が駆け抜ける。咄嗟に身を屈め――その動作が、昌浩の命を救うことになった。
 四つ足だった妖が後肢だけで俊敏に立ち上がるや否や、黒光りする鉤爪を振り回した。禍々しい妖気が刃となって収束し、甲高い音を立てて発射される。風神の起こす鎌鼬のように周囲の木々がたった一撃で断ち割られていく。
 もししゃがんでいなかったら、昌浩の体も同じように真っ二つになっていたに違いない。だが避けたところで危険が去ったわけではなかった。頭上に降り注ぐ大きな枝を回避しようと跳び退いた、まさにその瞬間、集中が途切れてしまう。
 陰形の術が解除される。
 妖は目敏かった。滲むように姿を現した人間の子どもへ、ひとっとびに飛びかかる。昌浩は――地面に転がりながらもなお崩さなかった刀印を構え、眦を決して言霊を放った。

「砕!」

 末孫でしかない彼が晴明の後継に選ばれた理由。それは偏(ひとえ)に、その霊力の高さ故だ。経験も少なく技術も足りないが、その才は余りある。未熟でも、妖と渡り合う上で必要な技能は既に修めていた。
 花火のような轟音が炸裂する。妖は全身に不可視の刃を受け、着地に失敗して悲鳴を上げながら昌浩の背後に転がった。昌浩は振り切った刀印を再び構えて立ち上がり、今度は五芒を切る。

「謹請し――」

 一撃で殺しきれるかわからなかったから、昌浩は縛魔術をかけようとした。片方を弱らせてから捕らえ、先にもう片方の調伏に集中しようと考えたのだ。墓の中の妖がここまで移動してくる間に目の前の妖を捕らえる。かなり危険な賭だが、そうするしかない。
 縛鎖の術が完成しようとした、そのときだった。
 昌浩の足下に落ちていた影が輪郭を揺らした。背筋を悪寒が這う。咄嗟に刀印を地面へ向けながら、昌浩は跳び退いた。

「禁!」

 影の中から飛び出した黒い獣が、寸前で築かれた透明な障壁に阻まれる。傷を負って転がっている妖よりは一回り小さいが、大きさは猟犬ほどもあった。その気配は昌浩がここまで追ってきた妖のもの。
 悪くなる一方の状況に冷や汗が流れていく。

(まずい……!)

 片方を仕留めきれていない。撤退するしかない。幸い大きな妖のほうは回復できずにまだもがいている。逃げるのなら今のうちだ。
 ――せっかく見つけた手がかりなのに?

「………っ」

 歯軋りしながら目の前の妖を睨みつける。青い目をしたその妖はなにも答えず、すぐ側の茂みに飛びこんだ。
 再びあの影渡りを行う気なのだろうか。だとしたら、どこから襲いかかってくる? この隙に逃げようとしても、きっと影から攻撃がくる。森の中はすでに自分が不利だ。――また足元からだろうか。
 昌浩の動揺を妖は見逃さなかった。刀印を作って身構えている、その遙か頭上――樹冠から、猫のように音もなく牙を剥いて飛び降りる。意識外からの攻撃に、昌浩は反応できなかった。
 なにも気づいていない昌浩の細い首筋へ牙が突き立てられようとする。成す術はない。
 瞬間、紅の閃光が弾けた。青い目の妖が突如乱入した太い腕に殴られ、地面へと落ちる。後を追うように真っ赤な炎が叩きつけられた。妖が目を剥いて炎の直撃を避ける。
 昌浩の肩を誰かが大きな手で掴んだ。振り返ると、背後には六尺を超える長身の男性が、吊り上がった双眸を金色に輝かせて立っていた。
 真っ赤なざんばらの頭髪に浅黒い肌をした、精悍な面立ちの美丈夫だった。二十代前半に見える。額には細い金冠を嵌め、仏像のような出で立ちをしていた。耳は尖っている。鋭い犬歯を剥きだして、獰猛に笑っていた。溶岩のようにどろどろとした灼熱の闘気を全身から発している。
 男は炎を操っていた。昌浩の太股ほどもある逞しい腕が絹布を絡ませて翻るたび、炎の鱗を撒き散らして真紅の蛇が空を裂く。青い目の妖は蛇に絡みつかれないように縦横無尽に跳び回っていたが、限界を感じたのだろう。隙間をかいくぐり赤目の妖の首根っこを咥えると、再度影の中に飛びこんだ。
 男が舌打ちして炎蛇を消す。炎の熱気だけが辺りに残り、夏の暑さと相まって耐え難いほどだった。

「逃げたか」

 落ち着いた、心地いい低音が耳に響く。昌浩の肩から男の手が外れていく。よく見れば、男の指先には長く鋭い黒い爪が生えていた。
 この青年もまた、妖なのだ。見知らぬ妖が、なぜ助けてくれたのだろう。だって協力してくれるような無害な妖に、こんな強い人型の男はいなかった。強いといったら、つい昨日会ったばかりの物の怪しか――
 妖を取り逃してしまったことにも気づかず混乱して見上げるばかりだった昌浩は、無意識に呟いていた。

「もっくん……?」

 金色の瞳が弾かれたように昌浩を見下ろす。その反応に確信を得て、昌浩は男の腕を掴んだ。

「やっぱり、もっくんなんだ」
「……もっくん言うな」

 男が不機嫌そうにそっぽを向き、頭痛を堪えるようにこめかみを押さえる。その姿も、声も、何もかもが物の怪とかけ離れていた。物の怪が炎を操っているところを見ていなければ思い当たらなかったかもしれない。

「じゃあ、なんて呼べばいいのさ」

 彼は顔を顰めた。そんな表情までいちいち絵になって美しい。人の形を取る妖は大体美形が多いと祖父に聞かされていたが、本物を見るのは初めてだった。美人は三日で飽きるというけれど、彼にはそれを思わせない、惹きつけるような不思議な魅力がある。もしかしたら異形の持つ魔力かなにかかもしれない。
 まじまじと見つめる。そんな昌浩へ、彼はため息混じりに答えた。

「騰蛇。それが俺の、本当の名だ」
「騰蛇……」

 口に乗せると、強い言霊を感じた。

「そう呼べばいい。構わない」

 昌浩はもう一回口の中で転がした。とうだ。この男に相応しい、力強い言霊。名前を聞いただけで彼に秘められた底知れぬ力が感じ取れる。
 思わず、昌浩は無邪気に尋ねていた。

「これが本当の姿なのか? なのになんであんなかわいい格好してるんだよ」
「あれは……」

 目の前の男が不意に黙りこむ。続く言葉を、昌浩は辛抱強く待った。
 と、長い沈黙のあとに小さな呟きが落とされる。

「お前、俺が怖くないのか」
「なんで?」けろりと聞き返した昌浩に、男が取られていた腕をびくりと震わせた。
「なんでって……」
「だって、《百年》やるんだろ」

 なんでもないことのように答えるたった十四才の少年を、その何十倍も生き抜いてきた妖は驚愕をもって見下ろした。

「昨日の約束をすぐに反故にするほど俺は薄情じゃない。大体、お前は俺を守ってくれるんだろ? なら感謝こそすれ怖がる必要なんて一つもない。それにお前のどこが怖いんだよ」

 懐かしい声が蘇り、重なって響く。六十年前、一本杉の山で聞いた声。
 安倍晴明も、この子どもと同じ言葉を口にした。