すばるのあとぼし#03
障子紙から差しこむ明かりに、自然と目が覚めた。けれど瞼は鉛のように重く、体中が倦怠に支配されている。激しい疲労が昌浩を縛りつけていた。
悪い夢を見ていた気がする。家族皆が死に絶え、同じ村落に住んでいた住民に追われる恐ろしい夢だ。逃げて助けを請い、風変わりな人喰いと契約をした。そのあと食事を摂って、湯に浸かって――それ以降の記憶が途切れている。なんて酷い夢。昌浩は薄い上掛けの下で身じろぎ、深く呼吸した。
――吸いこんだ空気の匂いは、住み慣れた家のものではなかった。
一気に覚醒する。跳ね起きて辺りを見回すと、知らない家の一室だった。着せられている寝間着も、使っていた蒲団も、昌浩のものではない。じわじわと現実が襲ってくる。
夢などではないのだ。
「起きたか」
からりと襖が開き、物の怪が入ってきた。
「風呂に入ってる間に寝ちまってたから、勝手に拭いて寝かせたぞ。あと、擦り傷や切り傷なんかも手当しておいた。痛むようだったら遠慮なく言え」
白い姿の異形。愛嬌のある外見をした人喰いはとてとてと畳の上を歩き、昌浩の側にちょこなんと腰を下ろした。
「……もっくん」「む」
長い耳が跳ね、不服そうに赤い瞳が細まる。衝動的に手を伸ばして抱きしめると、物の怪はびっくりしたのか前肢を突っ張って昌浩を見上げた。
「おい、どうした」
「……うん……」
物の怪はやわらかくてあたたかかった。長い毛並はふわふわできもちいい。こんな形で人喰いだなんて、まだちょっと信じられなかった。そして同じくらい、自分が独りぼっちであることが信じられなかった。
「……どうした、怖い夢でも見たのか」
「……ううん」
夢は見なかったから、そう答えた。現実が怖いのだとは言わなかった。それっきり黙りこんだ昌浩の腕の中で物の怪はじっとして、ゆっくりと尻尾を規則的に振った。
「明けの六ツ半だ」
「うん」
「眠れたか」
「うん」
「飯もできてる」
「うん」
「食べたら、出立しよう」
「……うん」
一人で生きていく術など、昌浩はまだ持ち合わせていない。今までの自分の生が多くの人の庇護によって成り立っていることを、改めて思い知らされる。これからは物の怪と二人でなんとかやっていくしかないのだろう。
物の怪がいてくれてよかった。一人だったら、きっと途方に暮れていた。
昌浩は眼を閉じて、暖かな毛並みに顔を埋めた。
用意されていた着替えに袖を通し寝間を出、案内されるままに屋敷の一室に入ると、そこにはもう湯気の立つ膳が用意されていた。座布団に座りながら、そういえばこの食事の用意をしたのは物の怪なのだろうか、とふと疑問に思う。昨日は朦朧としていて勧められるままに風呂までもらってしまったが、あれも物の怪が?
屋敷には昌浩と物の怪以外、なんの気配も感じられない。湯呑みに急須から茶を注いでいる物の怪を見下ろす。この小さな体で、そんな重労働をさせてしまったのだろうか。申し訳なさを感じながら言葉少なに朝餉を終えると、物の怪は昌浩を呼んだ。
「蔵を見せてやる。来い」
昨夜は気づかなかったが、屋敷の側には漆喰塗りの蔵まで建てられていた。物の怪の持ってきた鍵で大きな錠前を外し、重たい扉を引き開ける。少し埃っぽい匂いが清冽な朝の空気に混じった。ただ黴臭くはない。屋敷ほどではないが、こちらも虫干しなどをして定期的に管理されているらしい。
「お前は安倍の後継者だ。屋敷と蔵にあるものは、基本的に自由に使えばいい。ま、俺が助言をすることはあるけどな。使えそうなものがあれば持っていくといいさ」
その言葉に素直に甘えることにして、昌浩は足を踏み入れた。
蔵の中は様々な呪物や書物で溢れ返っていた。実家の蔵に勝るとも劣らない。読んだことがある一冊の書を見つけ開いてみれば、祖父の手による写本だった。他の書も、祖父の字のものが多い。
きょろきょろと視線を彷徨わせながら進んでいくうちに、ふと一点に惹かれた。棚に置かれた、一尺半ほどの大きさの長細い桐箱に目が止まる。自然と手が伸び、蓋を開ける。と、光沢のある布の上に一振りの懐剣が収められていた。
漆で塗られた鞘を掴み、引き抜く。美しい刀身が現れた。錆や曇り一つない、磨き抜かれた鏡のような刃。表面には憔悴した少年の顔が映し出されており、昌浩は自嘲気味に笑った。
いつの間にか物の怪が足元に佇み、見上げている。
「……護り刀か。よく見つけたな」
「……うん」
吸い寄せられるように辿り着いていた。たぶん、呼ばれたのだ。
ということは、きっとなにか重要な意味を持っている。
ぱちんと刃を鞘に収めると、彼は元の通り箱にしまわず懐へと入れた。
「これにする」途端に、物の怪が顔をしかめた。
「仇討ちするなどと言いだすなよ」
「まさか」
昌浩は肩を竦めた。
「俺は誰も傷つけない、傷つけさせない、最高の陰陽師になるってじい様に約束したんだ。人に向けたりはしない」
必要なものはもうない。あとは体一つだけあればいい。
ひんやりと薄暗い蔵を出て、手を翳しながら太陽を見上げる。高い位置まで上っている太陽は、夏特有のぎらぎらした光を力一杯放っている。
「……人には、ね」
微かに響いた言葉。
その言葉が指している意味を敏感に感じとりながら、物の怪は後に続いた。
「さて、村に向かうわけだが――」
蔵を出てから一旦屋敷に戻った物の怪は、奥に引っこむと竹筒に水を詰めて昌浩に渡した。受け取った昌浩は首を傾げて、「飯は?」と尋ねた。
「一日中歩くことになるのに、水だけじゃ倒れちゃうよ」
「ん?」
物の怪も同じように首を傾げ返したが、すぐに合点が行ったのか手を叩いた。
「あー、一日もいらん。一刻ばかりで着く」
「え?」
「飛んでくからな、ぴゅーんと」
「……え?」
「俺はどこぞの万能な妖みたいに器用じゃないが、それでもいくつか会得してる技があってな。見てろよー」
一日かかる道のりを、一刻?
耳にした言葉が信じられず、昌浩は濡れ縁から飛び降りる物の怪を目で追った。物の怪は軽やかに屋敷から二丈ばかり離れると立ち止まる。その姿が陽炎に包まれて揺らめくや否や、風が巻き起こった。咄嗟に袂で顔を庇う。
着物に小石がぱらぱらと当たり、砂塵が空気に混じる。が、すぐに治まった。腕を下ろすと――目の前に、白い固まりが出現していた。大きい。
ぽかんと口を開けて、昌浩はそれを眺めた。
大きな熊ほどもある大きさ。愛らしさを受け継がずに獰猛さを増している外見。長い耳や黒い爪は相変わらずだが、首周りの赤い突起は刺々した首飾りのような輪へと変化していた。小さな姿をしていたときには感じなかった妖気が解放されている。凄まじい存在感となって場を圧迫していた。
夕焼け色の大きな目が、糸のように細くなる。
「なんだ、臆したか?」
けして良いとは言い難い相になっているのに、声は甲高い子どもの声そのままだった。目を丸くして動かない自分に焦れたのか、もどかしそうに物の怪は続けた。
「怖かろうが連れていくぞ。人の足では時間がかかりすぎる――」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに昌浩は物の怪に駆け寄ると、その胸元に顔を埋めた。
「………」
「………」
変な沈黙が下りる。
「……なんの真似だ?」
「いや、ふかふかそうだったんでつい」
真っ白なもふもふした胸毛から顔を離すと、昌浩は大きくなった物の怪をしげしげと見上げた。
「……なんていうか、ちゃんと妖なんだなお前」
「でなかったらなんに見えるっていうんだ」
「小動物?」
物の怪は花びら模様の額に深い皺を作るとそっぽを向き、くそ、晴明の血縁はこんなのばっかかと毒づいて、地面に伏せた。
変化した物の怪の背中に跨り、空を飛ぶという滅多にない体験をさせてもらうことになった。山よりも高く、鳥と同じ高さで空を行く。田畑は継ぎ接ぎだらけの着物、家屋は小さな箱のようだった。景色はみるみるうちに流れ消えていく。
腹の底から震えるような恐怖があったが、もし背中から落ちたとしても物の怪はすぐに拾ってくれるのだろう。次第に恐怖は消え、この不思議な空中飛行を楽しむ余裕が出てきた。物の怪も察したのか、首を捻って背後の昌浩を見やってくる。
「少し尋ねてもいいか?」
「どうぞ」
緊張していたから話す余裕もなかった。物の怪は跨った昌浩の体の固まり具合からそれに気づいたのだろう。
長い耳をぴんと立て、物の怪は少し沈んだ声を出した。
「襲撃の夜、晴明は式神を使役していなかったのか」
「……うん」
「なぜ?」
見開いた赤い瞳が、本気で驚いている。昌浩は彼の驚愕にどこか申し訳なさを感じつつ、知りうることを話した。
「俺はじい様の式神を見たことがない。俺が物心ついた頃には、じい様はすべての式神との契約を解除したって聞いてる」
「……なに?」
「理由は……教えて、もらえなかった。笑うばっかりで、じい様……」
自然と最後は尻すぼみとなった。
本当のことだ。昌浩は祖父が実際に式神――とても力の強い妖や、神格を持っている存在が契約を交わすとこう呼ばれる――を使役しているところを見たことがない。何体もの式神と契約を行って妖退治をしていた全盛期の晴明を、昌浩は直接知ってはいない。
式神がいたらあの夜もなにか変わっていたかもしれないが、詮無いことだ。
「知らないならしょうがないな。気にするな」
「うん」
祖父の考えはわからない。もしかしたらこの先向かう場所で判明するものもあるかもしれないが、現時点ではまったくと言っていいほど何もわからなかった。
また嫌な沈黙が訪れる。昌浩はそわそわと物の怪の上で身じろぐと、努めて声を張り上げた。
「もっくんはさあ、なんの妖なの? もっくんみたいな妖見たことないよ。変化できて、結界も張れて、炎で攻撃する妖なんてじい様からも教わってないもん」
「あー、他には同じような能力の奴はいないだろうな」
「もっくんの本当の名前も知らないし。じい様からは、名前貰ってるみたいだけど」
祖父の姿をした式が物の怪をとても綺麗な名で呼んでいたことは覚えていた。紅蓮。――特別な言霊がこめられていた。聞いただけで、物の怪にとってとても大事なものであることが理解できた。
物の怪と祖父の間には特別な絆があったのだろう。まだ昌浩との間には存在していない、貴い絆が。
主と式。捕食者と家畜。両者の関係性はまるっきり違う。でも、昌浩は祖父よりも長い間、この物の怪とともに生きていくことになるのだ。ならば祖父と同じように――もしくはそれ以上の何かを、この妖に対して持たなければならないのではないか。
「好きに呼べっていったからそうしたけど、やっぱり不公平な気がする」
物の怪は昌浩の名を知っているのに自分が知らないことが不服で、昌浩は口を尖らせた。
「ひとに珍妙な名を授けてそれか」
「いいじゃんかよ」
ため息をついて、物の怪はまた首だけを後ろに向けた。
「じゃ、この件が終わったら教えてやる。それまではおあずけ」
「はーい」
良い子の返事をしたそのときだった。物の怪の体が、唐突にぐらりと揺れる。昌浩は慌てて目の前の赤い輪にしがみついた。風で煽られたわけでもないのに突然姿勢を崩した物の怪を訝しむ。
「どうした? どこか悪いのか」
雷鳴のような低い唸り声が響く。空を駆ける速度が落ちた。物の怪は少し背を丸め、苦しそうにしながらも「問題ない」とだけ返答した。
「ちょっと腹が痛いだけだ」
「ちょっとって、」昌浩は顔をしかめた。
「大丈夫かよ。休憩するか?」
「いや、あと少しで着く。動くのには支障ない。このまま行くぞ」
「そんなこと言ったって」
昌浩は引き下がらなかった。
「具合悪いのなら言っておけよ。いつからだ?」
また唸り声が低く轟く。跨った足の下、物の怪の体から直接振動が伝わってくる。その振動がなくなった頃、子どもの声がぼそりと返した。
「……昨日からずっと。お前の傷舐めてから」
昌浩はつい押し黙った。
嫌な沈黙が降り積もっていく。聞かなければよかったと今更思ったが、後の祭りだ。
「……俺、そんなまずいの?」
「死ぬほどな」
物の怪が深く頷いた。
「ちょっと舐めただけでこの様だ。殆ど毒だな。あーあ、晴明はあんなに美味かったのに」
「……なにそれ。おいどういうことだよ、まさかじい様囓ったってこと?」
「齧ってはない、齧っては。味見程度に舐めたことがあるだけ」
「……ふーん」
式なんぞやっていたくせに主の味見をする妖。どうなんだろう。
「お前が生まれる前に約定破棄されちまったが、安倍の一族は皆いい匂いをしてたな。お前なんか晴明よりいい匂いすんのに、中身がくそまずいのはどういう因果かねえ」
「俺が知るかよ。大体、昨日初めて知ったのにわかるか」
「そりゃ悪かった」
軽い謝罪が返ってくる。褒められているのか貶されているのかわかりにくいし、正直、褒められていたとしてもまったく嬉しくない。
それはそれとして、昌浩は気にかかっていたことを聞いた。
「じい様、知ってたと思う?」
「さてね」
物の怪は高度を下げると、若干口調を柔らかくした。
「あいつだって万能なわけじゃない。それに、お前が妖に襲われて食べかけられでもしない限りわからない素質だろう。そういう目にあったことは?」
「ない」
幼少から妖退治に赴いてはいたが、思い返せば怪我をしたことはあっても噛みつかれるような大怪我を負ったことはなかった。妖に血を舐められることもなかったと思う。
「それじゃ、晴明が知ってる可能性は低いな」
素っ気なく物の怪が言った。