PROSERPINA

すばるのあとぼし#02

 雰囲気の一変した物の怪に先導され、昌浩はその白い尾を追った。小川沿いに獣道を伝い山を下っていく。物の怪はまだ本調子ではないのか、たまにふらついていた。山中は既に真っ暗で、物の怪の体毛が白いことが有り難い。こんなに明るい色でなかったら、きっと見失って迷っていただろう。

 なおも進んでいると、突如視界が開けた。森を抜けたようだ。ぽっかりと空いた頭上に星々が煌めいている。目の前は山中の平地で、人など住んでいるはずもないのに大きな屋敷が建っていた。こんな屋敷、山を見上げたら誰にでも見つけられるはずだが、昌浩は麓から山を見上げたとき見つけた覚えはなかった。

「術で隠されてた……?」
「わかるか」
「うん……」

 ぽかんと口を開けながら探ってみると、巧妙に張られた結界を感じた。反応はごく微弱なものだ。近くだから感じ取れるが、麓からの距離では感知できないくらいのもの。

「お前が張ったの?」

 物の怪はにやりと笑って返した。

「これでも結構強いんだぜ」

 言って、入り口の戸を器用に開けた。
 屋敷は豪農が立てるような立派なものだった。入ってすぐは土間だが、畳の座敷はあるし、板張りの廊下は長い。そう古いものではなく、建てられて二十年ばかりといったところだろう。人の気配は感じなかったが、かといって埃臭くもなかった。誰にも使われぬまま清められ月日が経った異様な気配を感じた。不気味だが、不思議と怖くはない。
 物の怪が先を行きながら振り返る。

「先に飯食っとけ。その間に風呂を沸かしといてやる。寝床も用意するから気にすんな。その間に俺はやることやっておくから」
「飯って、」

 昌浩は驚いて、ぐるりと無人の屋敷を見回した。

「……あるようには見えないけど」
「妖の棲んでる屋敷だぞ。不可思議な出来事なら腐るほどあるぜ」

 二本足で立ち、物の怪は奥まった座敷の襖を開ける。途端、二人はその場に凍りついた。
 いるはずのない人間が、そこにいるために。
 白い髭を蓄えた痩身の老人が、穏やかな笑みを湛えて二人を待ちかまえていた。

「じい……!」

 呼びかけ、昌浩は口を噤んだ。目の前の老人の気配を読んだのだ。
 彼は、祖父ではない。

「……式か……?」

 物の怪がおそるおそる引き継いだ。祖父の姿を借りた式がゆっくりと頷く。

「昌浩や」

 記憶の中と全く同じ声音が、昌浩を呼んだ。心臓が跳ねる。拳を握りしめ、昌浩は目を見開いた。

「お前がその者と共にこの屋敷に訪れ、この式が現れたということは、わしはもうこの世にはおらぬ」

 いきなり息苦しさが込み上げた。呼吸が上擦っていく。

「安倍の家督と財産は全てお前が引き継ぎなさい。この屋敷もお前のものじゃ」
「待って……」

 からからに渇いた口で、そう呟くのが精一杯だった。

「昌浩。お前はお前の心を信じなさい。陰陽師としての自分を信じなさい。人事を尽くして天命を待て。さすれば自ずと道は開けるじゃろう。それがお前の強さ、天性じゃ」

 言葉を失くして立ち尽くすばかりの昌浩から視線を外すと、式は物の怪に微笑んだ。

「紅蓮」

 物の怪がぶるりと体を震わせた。祖父の姿をした、式がそれを見て笑う。

「お前にはずいぶん迷惑をかけたな」
「そんなことはない。お前ともあろう者が、何をいきなり殊勝なことを言いだしているんだ」

 必死な声だった。昌浩は瞠目して、物の怪を見やった。

「任を解いたというのに約束をずっと守っていてくれたのだな。すまない」
「俺が好きでやったことだ……謝る必要なんてない。――なあ、」物の怪が懇願するような声を出した。
「お前が死ぬわけないだろう。誰かに殺されるなんてありえない。それも人間相手に。他の式神はどうしたんだ」
「さて。死に際のことはわからぬなあ」

 物の怪は歯軋りした。これは式なのだ。予め聞かれることであろうことを話しているだけにすぎない――。

「じい様、……父上や母上、兄上たちは……?」

 晴明の姿をした式が再び昌浩へ視線を戻す。「この式は、」胸に手を当て、式は続けた。

「お前以外の一族が全て死に絶えた後、お前がこの屋敷に初めて訪れたとき現れる」

 昌浩の膝が力を失い、がくりと崩れた。辛うじて縋っていた希望が潰えていく。他ならない、祖父の言葉によって。それに耐えられなかったのだ。

「嘘……」

 愕然と呟いた昌浩を、物の怪が焦ったように見上げた。

「紅蓮、昌浩を頼んでもよいか」
「なに?」
「お前さえよければ、昌浩をお前に託したい」
「……この俺が? 馬鹿を言え」

 物の怪は引きつった笑みを浮かべた。

「俺になにができるっていうんだ。いくらお前の頼みでも……」
「そばにいるだけでよい」

 物の怪はつかの間言葉を失ってから、苦々しく笑った。

「いつもそうだ、お前は……勝手に決めて……その最後がこれか? 馬鹿にするのもいい加減にしろ」
「すまぬな」
「謝るな、馬鹿」

 吐き捨て、物の怪は尻を床に付けた。隣の昌浩は袴を固く握りしめて拳が真っ白になっている。絞りだすように震えた声が上がった。

「俺は……俺はまだ、じい様になにも見せてない。半人前のままで、……一人前になったとこ、見せたかったのに」
「思ったより早い別れになって、すまぬな」
「謝らないで……!」

 昌浩が顔を上げた。真っ赤になった目から次々と涙が溢れ、頬を伝い床に落ちていく。

「じい様を超える陰陽師になるっていったのに、約束守れなくてごめんなさい」
「そうじゃな、わしも見たかったよ」

 昌浩の顔がくしゃくしゃに歪む。袂で顔を拭いながら、昌浩はしゃくりあげた。

「じい様の馬鹿。うそつき。なにが稀代の陰陽師だよ……」

 式が膝を突いて、座りこんでしまった昌浩を抱きしめた。衣の質感も、その暖かさも、まるで生きている人間のようでさらに涙が溢れる。まだ祖父が生きていると信じたくなる、暖かさだった。
 穏やかな祖父の声が、式を通して響く。

「昌浩、なにがあっても人を恨むでないぞ。全ては巡り合わせじゃ。人が人を恨んではならぬ」
「……それ、約束?」

 涙で濡れた声が、震えながら聞いた。

「ああ」

 肯定される。
 約束。今まで祖父と結んできた約束の数々が脳裏を駆けていく。一番真新しい約束は、つい昨日結んだばかりだった。昌浩を一人残すために吐かれた、優しい裏切りの言葉。あれが最後に祖父と交わした約束になるなど、絶対にいやだった。
 祖父がいつだって昌浩を想っていることを知っていた。後継だから、という理由だけでなく昔から祖父は昌浩に対して甘かったから。だから、祖父との約束を拒むことなど考えられなかった。それがこんなことになるなんて、想像もしていなかった。
 せめて、最後の約束は、絶対に守りたかった。

「わかった……、約束する」

「よし、いい子だ」

 頷いた昌浩の頭を乾いた手のひらが撫でる。生きている祖父と何ら変わりない感触。けれど、もう、本当の祖父はいないのだ。

「さよならだ、昌浩」

 言葉が終わると同時、包まれていた感覚が消失する。昌浩は床に手を突いて、落ちてくる紙人形を愕然と見つめていた。禁厭(まじない)の描かれた人形(ひとがた)。もうぴくりとも動かない。きっと、祖父も。

「――っ、ふ……」

 奥歯を噛んで嗚咽を止めようとするが、体は言うことを聞かなかった。
 昌浩は本当に、ひとりぼっちになったのだ。
 祖父が嘘をつくことはなかった。安倍氏が死に絶えたというのは事実なのだ。昌浩を残して、家族は死んでしまったのだ。崖っぷちに立たされるような強い孤独感と恐怖が、昌浩の身を襲っていた。

◆◆◆

 呆けたままどのくらい泣き濡れていたのだろう。

 泣きすぎて頭痛がした。目も腫れて痛い。ぼんやりと座りこんでいた姿勢からずるずると横に倒れ、昌浩は薄暗い室内を見るともなしに眺めた。周囲からは松虫の鳴く声が響いている。胸は空っぽだった。大事なものを失くしてしまった気がした。

(――どうすれば、いいんだろう)

 これから。ひとりだけで、帰る場所もなく。寄る辺を失くしてしまった喪失感が、昌浩の体をひたひたと満たしていた。
 床板が軋む音が近づいてくる。唐突に、部屋の中の燭台に火が灯った。室内が明るくなる。白い影が昌浩の視界に入ってくる。
 物の怪は咥えていたものをぼとりと落とした。

「……酷い顔をしてるぞ。拭け」

 目の前に転がったのは、湯気の出ている手拭いだった。虚ろな目でしばらく眺めて、昌浩はのろのろと手を伸ばした。
 両目に押し当てると、熱がじんわりと染み渡っていく。気持ちよかった。
 でも、昌浩の家族はもうこんな感覚を味わうこともできないのだ。

「……お前は、」思いを振り払いたくて、昌浩はがらがらに嗄れた声を出した。
「じい様と知り合いだったのか」
「……ああ」

 ぱたりと尻尾が振られる音がした。

「何十年も前に調伏されて式になった。十五年ほど前に約定を解除されたあとは、あいつの個人的な頼みでこの屋敷を管理していた」
「……そっか」

 沈黙が落ちる。手拭いの熱がだんだんと冷めていく。
 熱がすっかり奪われきった頃、物の怪のほうから声をかけられた。

「お前、俺と《百年》やる気はないか」
「……なに?」
「人喰いの間に伝わる伝承だ。人間っていうのは大概が美味いが、ごく稀に死ぬほどまずい人間がいる。その身は妖にとって毒も同然。だけども、そのまずい人間を百年飼育すると極上の味わいになるそうだ」

 昌浩は手拭いをずらした。至近距離から、物の怪が自分を覗きこんでいる。火に照らされて夕焼け色の瞳が美しく光っていた。
 心臓の鼓動を百数える。その間、昌浩はずっとその瞳を見つめ続けていた。

「それを、俺とやろうっての?」
「ああ」

 また黙りこんだ昌浩は、横になったまま自分の手を見つめた。
 祖父の姿をした式とは違う、本当に生きている人間の手を。
 開く。握る。開く。――握る。
 やれることがない? そんなの嘘だ。だって手が動く。足も動く。頭は動いているし、目だって見える。話すことだってできる。
 死んでしまった家族を思えば、昌浩はまだなんだってできた。生きているからだ。生きている限り、やれることなんて星の数ほどある。

 そう、昌浩は生き残った。

「……俺、やらないといけないことがあるんだけど」
「言ってみろ」
「村に戻って、真実を探す」

 きっぱりと言い放った。

「うちの家族が簡単に死ぬはずがないんだ。父上や兄上たちは武術も一緒に修めていた。火が回っても、人間に襲われても、術と腕っ節で逃げられるはずなんだ。それにじい様が、襲撃されるまで村人の様子がおかしいことに気づかないわけがない。変なんだ」

 声が力を取り戻していく。むくりと起きあがると、昌浩は冷えきった手拭いを握りしめた。

「どうして人間相手に逃げられなかったんだ? どうしてじい様は異変の予兆を感じとれなかったんだ?」
「……なるほど」

 静かな声で、物の怪は微かに笑った。

「泣いてばかりかと思えば、お前は確かに晴明の孫のようだ」
「孫言うな」

 口をついて出たいつもの文句。七光りを嫌っていた昌浩は、他人に晴明の孫と呼ばれて評価されるたびに反論していた。そのいつもの文句に、また少し自分を取り戻す。

「さっきの《百年》だけど」睨むように、彼は物の怪を見据えた。
「やってもいい。けどその間、俺を敵から守ってくれるって約束するか?」
「ああ。敵だけじゃなく、事故と天災含めて全ての危険から守ると約束しよう」
「お前は人喰いだからいつか俺が祓うかもしれないけど、それでもいいのか」
「そのときはお前を傷つけないように俺が勝つまでだ」
「……自信満々だな」

 呆れ半分、怒り半分といった調子で昌浩は唸った。

「百年経つ前に寿命で死んじゃうかもしれないぜ」
「死なないように健康に育ててやるさ」
「じい様より長生きしろっていうのか」
「あいつは八十越えても矍鑠(かくしゃく)してただろ? だいたい、晴明を超えるって無謀な約束をしてたんならあいつより長生きしてやれ」

 やれやれと、昌浩は肩を竦めた。

「じゃあ最後。《百年》の間人を食べるのはやめてほしい」

 飼育されることに異議はない。最後に食べられるのだとしても――自分が「美味しく」なることが前提だが――安全に人の一生を終えられるのなら安いものだ。ただ、その間食人を許すかどうかは別の話になる。だって、昌浩は人間なのだ。同じ人間を食べる奴の側で生きることはできない。
 物の怪に断食を強いることになろうとも、これだけは譲れなかった。
 だが、相手は思ったよりあっさりと首肯した。

「いいだろう」
「破るなよ?」
「約束する」

 物の怪は頷いて、黒い爪で器用に昌浩の手から手拭いを取り上げた。

「じゃあ、飼育の第一歩目といくかね。飯食って風呂入って、寝ろ。用意はしてあるから。ちなみに、明日の朝は早いぜ」
「……今何刻……」
「夜の五ツ半」

 昌浩は目元を押さえると、深くため息をついた。

「……わかった」

 立ち上がると、物の怪がまた先導して出ていく。昌浩はその小さな後ろ姿を見下ろしながら、そうだと声を上げた。

「お前、名前なんて言うんだよ」
「あー……」物の怪は振り返り、「好きに呼べばいいさ。いろいろ異名があるんでな」答えた。
「ふうん」

 後ろに付いたまま長い廊下を歩きつつ、しばし考えこむ。「じゃあ、もっくん」

「……………は?」

 足の止まった物の怪が振り返って、胡乱な顔をして聞き返してきた。

「今好きに呼べばいいって言ったじゃん。だから、物の怪だからもっくん」
「――いやいやいや、ちょっと待て、それはあんまりにもあんまりじゃないか」
「かわいくていいじゃん」
「だからってな、」
「言質を取らせたほうが悪い」

 物の怪がぐっと詰まった。正論だ。彼はしばらく耳をぶるぶると震わせていたが、やがてがっくりと頭を落とした。

「……わかった、好きにしろ」
「うん、好きにするよ」

 昌浩はくすりと笑った。昨夜以来、ようやく零れた笑みだった。
 空元気でも、空元気なりにようやく作れた笑みだった。