すばるのあとぼし#01
――真っ赤な牡牛座の心臓は、いつも統星の後ろで光っている。
日も落ちて薄暗い山中を駆け抜ける音がする。山頂へと続く道は狭い上に急勾配で、下草が伸びるにまかせられた酷いものだ。獣道よりも若干ましな程度といったその道を、息を切らしながら少年が登っていた。
まだ齢十四程ほどの、成長期を迎えたばかりの子どもだった。白い木綿の半着に灰色の行灯袴を穿いて、黒髪を首の後ろで一つに括っている。走ってはたびたび立ち止まり、汗みずくの額を袖で拭いながら、それでも休むことなく必死に駆けていた。
頂まではあと少しだ。大して大きくもない山だが、登るには半刻はかかる。そろそろだろうと、少年は木々の間から頂上が見えやしないかと目を凝らした。だが、目印の大きな一本杉は暗闇に紛れて映らない。落胆した瞬間、彼は足を滑らせて転んでしまった。咄嗟に手を突いたのが功を奏し、斜面から転落することはなかったが、手のひらには小石が食い込み血が滲む。しかし、肩を疲労に上下させながらも、少年は袴に血を擦り付けてなおも立ち上がった。
山間に犬の吠える声が響く。
少年がぎょっとして麓を見下ろした。どくどくと激しく脈打つ心臓が恐怖で締め付けられていく。僅かに後ずさると、彼は再び頂を目指して駆けだした。
――彼、安倍昌浩は追われていた。
この世には様々な妖が存在し、その多くは人喰いの性質を有している。安倍家は有名な妖祓いの一族だった。数百年前から続くという家は元は京の陰陽師だったらしい。近隣の村や遠い町から妖関連の相談事が舞い込んでは、兄弟や親戚が出向いて解決していた。特に当代の安倍家当主、昌浩の祖父晴明は、開祖に勝るとも劣らない三国一の退治師と噂されるほど高名だった。
末孫の昌浩も晴明に次ぐ力を持つと見込まれ、その後継として育てられてきた。だが、今は――
次第に犬の声が近づいてくる。ただの野犬だと思いこもうとするが、聞き慣れた吠え声を間違えるわけもなかった。あれは村の狩人が飼っている猟犬の声。昨日姿を見られたときに放たれたのだろう。
怯えが喉の渇きを早め、足を萎えさせていく。否応なしに悪夢のような出来事が眼前に蘇り、昌浩はふらりと木の幹に手を付いた。
あの時、真っ赤に染まった夜空の下、祖父は真剣な眼差しでこう言った。
(一本杉の山へ行きなさい)
辺りは放たれた火で囲まれていた。離れたところから響く怒声と悲鳴に気が気でなくなりながら、父や母、兄ともはぐれて昌浩は祖父と二人逃げ道を探していた。火の粉が至近距離で爆ぜるほど火は近く、熱気が肌を焼く。互いの顔は煤と汗で汚れていたが、炎は赤々と祖父を照らしだしていた。
だからきっと、昌浩の表情だってよく見えていたに違いない。
(……なんだよそれ)
ようやく見つけた、火のついていない垣根。その側で立ち止まるなり昌浩の背を押した祖父。彼を振り返った昌浩の顔は、血の気が引いて真っ青だったろう。祖父の袂を握って、昌浩は泣きそうになりながら縋った。
(父上たちを助けにいくんなら、俺も行きます。俺だけ逃げるなんて、そんなの嫌だ。みんな助かるんじゃなきゃ……)
(昌浩、)
(嫌だ! 聞きたくない!)
両耳を塞いで蹲りかけた昌浩の手を無理矢理取って、祖父は厳しく声をかけたのだ。
(いいから聞きなさい。わしは今から皆を助けに戻る。お前は一本杉の山に行って、そこに住まう者に助けを請え。必ず力になってくれるはずじゃ)
祖父の声は落ち着いていた。彼が取り乱した場面を、昌浩はついぞ目にしたことはなかった。こんな恐ろしい状況でも祖父は冷静に見えた。混乱の坩堝に飲みこまれかける昌浩を救い上げるだけの余裕。安倍家の当主たる祖父は、いつだって昌浩の憧れであり目標だった。
声をかけられ、幾分か落ち着きを取り戻した昌浩は、それでも不安を取り除けずに聞き返した。
(でも……でも、もし間に合わなかったら)
(わしを誰だと思っておる)
昌浩の額を指弾しながら、祖父はいつもどおりからからと笑ったのだ。
(稀代の陰陽師、安倍晴明じゃ)
それが、生きている祖父を見た最後だった。
晴明が口にした一本杉の山は、地元では有名な迷い山だ。名前の通り、頂上に樹齢数百年もある大きな杉が一本立っている。数十年前までは山に人喰いが住み憑いていて、力の強い退治師を十人以上も喰らっていたのだそうだ。それを若き晴明が調伏して以来、山は常人が登ろうとすると迷わせ、けっして頂に辿り着かせず、すぐに麓に送り返してしまうのだという。安倍家がある村からは歩いて一日ほどの、すぐ近くにある山だった。
昌浩は祖父の言いつけ通りりこの山に向かっていた。だが途中、追っ手に僅かばかりだが姿を見られてしまったのだ。その時追っ手が叫んだ言葉が、長い間昌浩を打ちのめしていた。
(化け物の生き残りだ!)
(殺せ!)
(後はあいつだけだ!)
生まれた時から顔を合わせていた同じ村の友人や隣人が、昌浩を指して叫んでいた。
一族を滅ぼしたのは妖ではなかった。昌浩と同じ、人間だった。
昌浩はかぶりを振ると深呼吸した。
祖父の遺言は、果たさねばならない。
たとえ昌浩以外の家族が、既に川向こうにいようとも。
犬の声に急かされ、昌浩は再び走り出した。草と砂利の混じった細い道を駆け登る。だんだんと木が少なくなり、小路が幅を大きくしていく。斜面がなくなり歩きやすくなったと思った途端、彼は開けた場所に足を踏み入れていた。
目の前に大人が数人がかりで輪を作ってやっと囲めるか、といった太い幹の杉がそびえ立っていた。ぼろぼろの皮はところどころ苔生しており、年月の長さが伺い知れる。
一本杉だ。
息を乱しながら、昌浩は足を止めた。そのままぺたりと座りこみ大樹を見上げる。
「じい様……」
無意識に呟いたのは祖父の名だった。
見回した周囲に人の気配はない。遺言を果たしに来たのに。助けを呼べと、祖父は確かに言ったのだ――祖父の言いつけを守ろうとしてここまで来たのに、最後の約束すら守れないのか。
いや、たとえ約束を守ったとしても、本当に守りたい相手はこの世にいないのかもしれない。
あえて考えないようにしていたその事実に気づいて、昌浩は袴を握りしめた。
だがまだ諦めるには早すぎる。村人が虚言を吐いていた可能性だってある。祖父も、両親も、兄弟も、人間相手にやすやすと殺されるような人ではない。まだ望みはあるはずだ。一人打ち拉がれる暇があるなら動き続けるべきだ。
「おんやあ? 珍しいなー、ここまで登ってくる奴がいるなんて」
その時、幼児のような甲高い声が響いた。
人っ子一人見えなかったはずなのに。昌浩は肩を震わせた。声の主を探してきょろきょろする、その先で茂みの一つが音を立てて揺れる。知らず体を固くして息を呑んだ彼の前に、白い毛並みがひょんと尾を振りながら現れた。
それは四つ足の獣だった。大きな猫か小さな犬といった具合で、体毛は白く、毛足は長い。耳も兎のように長かった。大きな二つの眼は夕焼けを閉じこめたような綺麗な朱色で、額には同色の花びらのような文様がある。首周りは長細い曲玉のような突起が一巡しており、これも鮮やかな朱色をしていた。足先には黒く鋭い爪が備わっている。
ふさふさした尻尾を左右に振っているその獣はどう見ても尋常の生き物ではない。物の怪だ。獣はひどく人間くさい笑みを浮かべると、昌浩の目の前にちょこなんとお座りした。
「どうした子ども。迷子か?」
「……そうじゃないけど……」
「ん? おかしいな、この山に入ってくる奴は大概迷った奴なんだが」
獣の姿をした物の怪は高い声で人間の言葉を操っている。久方ぶりに聞いた、悪意も邪気もない声だった。
「あの、俺、じい様にここに住んでる奴に話をしろって言われて」
「はあ?」
物の怪が目を丸くする。
「ずいぶん酔狂な奴もいるもんだな。捨てられたか? 捨てられたのか?」
「――そんなわけないだろ!」
思わず、昌浩は怒鳴っていた。
最後に見た祖父の顔が瞼に浮かぶ。目頭が急激に熱くなっていく。
祖父は末孫に意地悪することはあったが、ちゃんと愛してくれていた。だからあの炎の中でも昌浩を逃がしたのだ。断じて捨てられたのではない。
昌浩が睨みつけていると、物の怪は申し訳なさそうに後ろ足で耳を掻き、素直に謝った。
「悪い。ここにくるのは迷うか捨てられた奴ばっかなもんだから。それにお前、ずいぶん汚れてるしな」
「これは……その、追われてたから、急いでて、」
「ふうん」
長い耳がそよぐ。次いで夕焼けの瞳が鋭く細まった。物の怪が腰を上げ、昌浩の横を通り過ぎる。
「なるほど。確かに追っ手だ。おいお前、俺の後ろにいろよ」
どきりと心臓が跳ね上がった。追っ手。忘れていた。目的地に到着したはいいが、昌浩は未だ追われる身なのだ。
祖父はこの山に住まう者に助力を願えと言った。多分、この物の怪がそうだ。事情を話して、力を貸してくれと頼まねばならない。
追っ手という単語を聞くなり走り出した心臓がうるさかった。無意識に浅くなる呼吸をどうにかなだめようとして、胸を押さえる。物の怪はというと、昌浩が現れた藪の辺りを睨んでいた。呟きがぽつりと落ちる。
「来たぞ」
何が、と問い返す暇はなかった。
突然藪から黒い影が二つ猛烈な早さで飛び出した。昌浩と、そして物の怪めがけて一直線に襲いかかる。驚きで体が硬直し、昌浩は避けることができない。
だが、あわやというところで物の怪が立ちはだかった。
「俺の獲物に手を出すな!!」
朱色の瞳と額の文様が煌めく。かと思うと一瞬にして、何もなかった空間に炎が炸裂した。
「……っ」
山の仄暗い視界に慣れていた眼には、爆ぜた炎が酷く眩しかった。太陽を直接見てしまった時のように、瞼を閉じてもちりちりと残光が焼きついてしまっている。昌浩は両腕で目を庇っていたが、やがてそろそろと腕を下ろし、ゆっくりと目を開けた。
最初に視界に入ったのは、炭化した塊だった。焦げた地面の上に無造作に転がっている。肉が焼ける臭気が鼻をつき、慌てて袂で口を覆う。立ちこめる熱気と燻った地面から上がる白い煙の中、物の怪が塊に近づいているのが見えた。
「犬だな」
鼻面を寄せてふんふんと臭いを嗅いでから、物の怪が零した。
犬。おそらくは最前から昌浩を追っていた、村の猟犬だ。
「……なにも、殺さなくたって……」
「はあ? お前を殺す気マンマンだったぞこいつら」
「だって、」
動物とはいえ同じ村で生活していた仲間なのだ、と反論しようとしかけて、昌浩はふと頭にひっかかるものを感じた。
先ほど、この物の怪はなんと言った。
「……あの、さっき獲物がどうこうって」
「あー」
物の怪がにやりと、意地の悪い笑みを浮かべた。
「俺、人喰いなの」
昌浩はぽかんと口を開けて固まった。だって、この山の人喰いは祖父が調伏したはずだ。祖父がそんな嘘をつく訳もない。じゃあ、どこかから移り住んできた妖なのだろうか。
固まった昌浩に、物の怪は聞かれてもいないことを自慢げにぺらぺらと高説し始めている。曰く、何百年と生きている大妖怪だとか、巷では最強にして最凶と言われているとか、美食家だとか、この山が迷い山なのは美味しい人間だけを選り分けているためだとか。
最後に昌浩の指先をぺろりと舐め、物の怪はふさふさとした尻尾を左右に振りながらにんまりと笑った。
「思ったとおりだ。何十年かぶりにこんな上玉の人間に会えるとはな」
「上玉って……」
「霊力の強い人間ほど美味い味をしてるのさ。だから俺たち人喰いの中には死ぬの覚悟で退治師を襲う奴もいる」
無意識に、昌浩は舐められた指先を押さえて後ずさった。ちっとも害のある妖には見えないけれど、相手はこちらを食べる気なのだ。
「……悪いけど、まだ食べられるわけにはいかない。それに俺はじい様の言いつけでお前に会いに来たんだ。お前に助けてもらえって」
「じい様、ねえ」
物の怪は首を傾げて、昌浩の膝に前肢を乗せると顔を近づけてきた。思わず仰け反る昌浩を意に介せず、無遠慮に嗅ぎ回してくる。
「まあ聞いてやらんこともないが、そのかわり食べさせてくれね?」
「やだよ!」
「なんでだよー、いいじゃんよー、指の先っちょだけでもいいからー」
「やだって言ってる……ひゃ、」
物の怪の生温かい舌が昌浩の頬にできた擦り傷をべろりと舐める。昌浩は真言唱えてやろうかこの野郎、と思いながら物の怪の首根っこを掴んで引き剥がした。文句を言おうとして口を開きかけ、そこではたとやめる。
物の怪の様子がおかしい。
ぴんと前肢を突っ張り、舌を出したまま固まっている。まるで時間が止まったように。しばらくして、鼻先から尻尾へと真っ白な体毛が順番に逆立っていく。全身の毛がぼんぼんに膨らんで、威嚇している猫か、狸のようにも見えた。食べられかけている最中だというのに、生来の人の良さから、昌浩は不審気に声をかけた。
「……おい?」
「……がい」
「?」
物の怪が大きな瞳から大粒の涙を零した。
「――っっぎゃああああああぁぁぁぁぁ!」
いきなり悲鳴を上げ、四肢をばたつかせ始める。驚いて思わず昌浩が手を離すと、地面にぼとりと落ちた物の怪は一目散に木立の中へと駆けだしていった。慌ててその後を追っていくと、白い影が石清水の中に頭を突っこんでいるのが見える。ともすれば滑りそうになる足元に注意しながら近づき、藪を掻き分けると、物の怪は水場に横たわって濡れ鼠と化していた。
「……なにやってんのお前」
しゃがんで長い耳を持ち上げる。物の怪は生気のない、どんよりとした目で虚空を見上げながら呟いた。
「――がい」
「はい?」
聞き返す昌浩に、先程までの元気など余所にやってしまったような物の怪が力なく零した。
「にがい、えぐい、からい、すっぱい、まずい」
「……ええと」
「中身まずい……だまされた……」
よくわからないが、どうやら自分は貶されているらしい。昌浩は物の怪の脇に手を入れると抱き上げた。
「なんか失礼なこと言ってるだろ」
物の怪は哀れっぽく鼻を鳴らして泣き続けている。
「まずい人間なんて……いるわけないって……お伽話だと思ってたのに……」
「はあ。まずい、ねえ」
昌浩は二の腕の擦り傷を舐めてみた。塩と土と血の味しかしない。美味いものではないが、えぐいだの苦いだの言われるようなものでもないだろう。気を取り直して、昌浩は物の怪を揺すぶった。
「そんなことより、俺の話を聞け。安倍晴明の名前は知ってるだろ」
「ちょ、吐く……なに? 晴明?」
苦しげに歪んでいた物の怪の橙色の瞳が丸くなった。紆余曲折はあったが、ようやく本題に入れそうな予感を感じる。昌浩は深呼吸して続けた。
「俺は安倍昌浩。晴明は……俺のじい様だ。俺はじい様に命じられてお前に会いに来たんだ。頼む、助けてくれ」
「……助けろって、」
物の怪は昌浩の腕の中で器用に起きあがった。
「話せ。何があった」
最前までのおちゃらけた様子とはまるで違う、子どものような物の怪の声音が低く潜まった。物の怪との会話で少し軽くなっていた昌浩の心は、再び惨劇の夜へと立ち戻っていく。一度目を閉じて、昌浩は切り出した。
「昨日の夜、突然屋敷が村の人たちに襲われたんだ。理由はわからない。火まで付けられて、――家族がどうなったのかもわからない。俺はじい様に助けを呼べって言われて、ここまで来たんだ」
「晴明は?」
「……わからない、」
切羽詰まったような物の怪の声が祖父の安否を尋ねる。が、昌浩も知らないのだ。「なあ、」首を振って、彼は物の怪の目をまっすぐに見つめた。
「助けて、くれるか」
「……いいだろう」
物の怪の瞳が鋭く細まる。昌浩の腕から逃れ地面に飛び降りると、彼は振り返った。
「来い。歩き通しだったんだろう。休ませてやる」
「――うん」