L'arbre de Judee
じりり、じりり、じりり。
聞き慣れた音。大きな音が耳元で鳴っている。私はベッドの中でぱちりと瞼を開けた。生来寝起きが良いおかげで勤務に支障をきたしたことがないのは、私のささやかな自慢。今日も無事目が覚めて、少しほっとする。
枕元でうるさく鳴っている目覚まし時計に手を伸ばしてベルを止める。少し暗い赤に塗られたツインベルタイプのこの時計は私のお気に入りだ。お城で勤めることが決まったとき、どきどきしながら必要なものを買いに出かけた。そのときアンティークショップで目に留まった、シックな一品だ。
身体に残留する眠気を追い出すため、起きてからはなるべく動くことに決めている。ベッドから下りて上掛けとシーツを剥ぎ、角を揃えて真四角に畳む。来たばかりの頃はこんなことも満足にできなかったけれど、今ではベッドメイクも得意中の得意。手早く済ませて、今度は窓のカーテンを音を立てて開ける。外はまだ真っ暗だが、私は両手を上げてうんと伸びをした。
三月の朝。午前五時。空は雲一つなく星が輝き、硝子越しに這いだした冷気が足下を襲ってくる。――いい朝だ。
後一時間もすれば黄褐色に白んでくる空の彼方から太陽が顔を出すだろう。メモリアは温暖な気候なため、この季節でも昼間ノースリーブで過ごすことができるが、早朝はやはり冷え込む。
さあ、ここからは時間との戦いだ。私は作り付けの衣装箪笥から下着を取りだして脱衣所へ入り、ネグリジェを脱いで、持ってきた下着と一緒に籐籠に放り投げる。バスルームに繋がるアコーディオンドアを押して中に入ったら、シャワーコックを捻る。頭上から雨のように水が降ってくる。お湯のコックを調整すれば、すぐに水はぬるま湯に変わった。
まずは皮脂が落ちやすいようにゆっくりと髪を解していかなければならない。髪の毛全体にお湯が行き渡ってから頭皮を指の腹でマッサージ。それから手櫛で髪を梳く。私の髪はどうにも癖っ毛でいつもブラッシングには苦労するのだが、濡れていればまだましなほうだ。幾分か素直に髪の毛は指の間を通っていく。
充分に濯いだと判断してから一旦シャワーを止める。シャンプーボトルを一回プッシュ。濡れた手のひらにとろりと溜まるオレンジ色の液体は、湯気と一緒にハーブの匂いを狭いバスルームの中に充満させる。
ここのポイントは、髪の毛に直接付けずに手のひらの上で泡立てるところ。テニスボール大まで泡が膨らんだら頭に乗せて、濡れた髪でさらに泡立てる。もこもこに増えた泡が頭全体を包んだら二回目の頭皮マッサージを開始。円を描くように指先を滑らせる。髪の生え際は重要な戦略ポイントなので、手早く、しかし丁寧に行わなければならない。耳の後ろや首筋も同様に気を付ける必要がある。こういったところは他人の目に付きやすいし、体臭が香りやすいところだ。私達の仕事は目立ってはいけないし常に清潔感を漂わせておかねばならない。身綺麗にしておくのも勤務の一環なのだと、何年も前に先輩に注意されたものだ。
シャンプーをぬめりが無くなるまでしっかり濯いだら、今度はリンスの番だ。ボトルを二回プッシュ。手に取ったら両手で擦り合わせる。手のひら全体にリンス液を広げてから、髪の毛を梳くようにその両手で塗っていく。前髪も根本から梳き、後ろに流す。いつもは見えない額を露わにして、私はバスルームの鏡に映る自分の顔を覗きこんだ。うん、血色よし。リンスを馴染ませている間に身体を洗ってしまおう。
濡れたボディスポンジにソープを落として何回か握り潰せば、大きな泡の出来上がり。昨夜寝る前に一度入浴しているから念入りに身体を磨き上げる必要はない。寝汗を流す程度に肌にスポンジを滑らせる。全身が泡塗れになったらスポンジを放り出して、スクラブ入りの洗顔ソープを手のひらに五センチ。洗面器に溜めていたお湯を垂らしてきめ細かい泡を作る。できたら、額と鼻と頬、合計三箇所に泡を乗せ、額と鼻筋は力を入れて、頬は泡だけで擦る。頬は特に皮膚が柔らかいから洗顔の時に指で擦っていけないのは鉄則だ。
余った泡でもう一度首と耳の裏を洗ってから、ようやくシャワーコックを捻ってリンスと泡を全て洗い流す。髪の毛を絞ってある程度水分を落としたら、脱衣所に戻ってバスタオルで全身を拭う。最後に髪の毛をタオルで巻いて、私はさっさと下着を身に着けた。
ふんわりとした真っ白いズロースに、同じく白いレースのブラ。――誰も知らないが、実はこのブラ、パッドを三枚も入れている。正直な話、私は胸が大きくない。周囲の目を誤魔化すにはこうするしかないのだが、着用し始めの際は流石に羞恥と違和感でがちがちになっていたものだ。今ではすっかり慣れてしまって、躊躇いも何もかも忘却の彼方である。ふとした瞬間に寂しさと悲しさが襲ってくることがあるけれど、まあ、些細な問題だ。
脱衣所を出て時計をチェックすると五時三○分だった。いつもと変わらないスケジュールで動けていることに安堵しながらクローゼットを開ける。仕舞ってあったペチコートとキャミソールを着け、エプロンドレスに袖を通す。カフスを留めたら靴下を履く。膝上まである長くて白い靴下だ。靴下留めで太股に留めたら、靴下留め自体は見えないようにズロースの位置を調整する。
衣服の着用が終わったら、次はお肌の準備だ。
備え付けの鏡台の前に座って、二種類の化粧水で保湿。しっかり肌に染み込んだことを確認してからUVカットの化粧下地。むらなく塗り終えたら、ドライヤーで濡れたままの髪を乾かす。五分ほどで乾くので、朝は非常に助かる。
ドライヤーの電源を落としたら大幅なヘアバンドで前髪を上げて、いよいよ本格的な化粧へ突入だ。
ちなみに今使っているのは、街で知り合った化粧品販売をしている女の子から勧められたものだ。透き通るような白い肌をしている、奇麗な肌の娘。今度のオフにまた会う約束をしているのだけれど、ああ、早く休日にならないだろうか。楽しみだ。――まったく、化粧をしているときは考え事が多くなって仕方がない。これから仕事だというのにそわそわしてしまう。友人にも欠点だと指摘されたこともあるし、控えた方がいいと言われているのだけれど、どうにも抑えることが難しい。
でも、これでもちゃんとケーキのイチゴは最後の最後に取っておくタイプなの。彼は知ってるかな。どうかしら。
そう考えている間にも手は機械的に動いていく。リキッドタイプのファンデで毛穴をカバーしたらパウダーファンデで肌理と艶を整え、フェースパウダーの入ったボトルパフできらきらした粉を顔に乗せる。顔全体が明るくなったら薄いブラウンのアイブロウの蓋を開けて、ブラシにたっぷりと粉を取ってから量を調節。鼻筋に引いてノーズシャドウを作る。次はアイメイクだ。ビューラーを小刻みに当てて睫毛をカールさせたらアイライナーで線を描き、いくつかのチップを使い分けイホールにシャドウを重ねて入れる。ゴールドのアイブロウペンシルで眉を描いたら、最後にバラ薔薇色のチークをブラシに取って頬に薄く掃く。
マスカラは付けない。付けなくても充分長いし、量があるので自前で賄えるからだ。
ようやくヘアバンドを取ったら乱れた髪にブラシをかけ、ところどころをヘアピンで留める。コスメボックスから春の新色のルージュを取り出してリップブラシで唇に塗っていけば、艶めいた唇がふっくらと輝いた。
支度はこれで終わりだ。確認すると、時計は五時五〇分を示していた。零れた液体や粉をウェットティッシュで拭き、化粧品を定位置に戻して机の上を片づける。
椅子に腰掛けたまま、私はしゃんと背筋を伸ばしてネクタイを締め、カチューシャを付ける。位置を調整し終えたら、膝の上で手を揃え、一人でにっこりと笑ってみた。
目の前の鏡の中には女性が一人。黒いお仕着せの上にフリル付きの白いエプロンという格好で、私に笑い返している。背中の中程まである金の髪は朝日を照り返して鮮やかに輝いていた。顔は十人中十人が美人と褒めそやす造作で、おかげで勤め出してから何人もの男性に告白されている。
「おはよう」
ルージュを引いた唇が動く。私と同じように。
リィ。それが私の名前。このメモリア城で働くメイドの一人――それが私。
今日も一日が始まる。私は私の仕事をする。
メモリア城には多くの使用人が勤めている。その中でもメイドは城壁内の従業員寮でそれぞれ個室を与えられ、週五日勤務のシフトで働いている。私のように市街地に実家があっても街からの出勤は認められておらず、原則寮生活だ。特に不満に思ったことはない。朝が早い役職なので、いちいち街から出勤していたら朝四時起きになってしまうだろう。それは誰だって嫌なはずだ。
午前六時。私を含め同僚は皆寮を出、城内の従業員専用ホールへと移動する。敷地があまりに広大なので、移動するにも時間がかかるものだから、ここに勤めている者は皆自然と早い行動を心掛けるよう留意するようになる。
「おはようございます、リィさん」
ホールに入ったところで、私は後輩のマルチーノに声をかけられた。
彼女は去年奉公し始めたばかりのメイドだ。とはいえ、昔から勤めていた母親に連れられてよく城に来ていたらしい。そのせいか、順応と上達は驚くほど早かった。
セミロングの黒髪に、両目の泣き黒子が印象的な可愛い女の子。子供の頃に歯並びの悪さをからかわれて以来、男性が苦手になってしまったそうだけど、最近はだいぶ緩和されてきている。
「おはよう、マルチーノ」
私は振り返り彼女に微笑んだ。マルチーノの配属されている部署は私と同じところなので、一緒に仕事をすることが多い。時々ミスをすることもあるけれど、料理も掃除も得意な、性格の優しい素敵な女の子だ。私達は今日も一緒に整列をして、侍従長の朝礼を待つ。
午前六時一五分。城内で働く数百人のメイドが整列したその前に侍従長が立ち、朝礼を始める。内容は本日の注意事項と朝の挨拶。ごく手短に抑えられたそれは、朝礼が終わり次第各自それぞれの持ち場へ速やかに向かえるようにするためだ。
私の持ち場は食堂ホール。半年前までは使用されていなかったが、現在は王族とそのご友人様方が朝食を摂るために使われている。メモリア王国国王のバレット陛下はご高齢で、最近めっきり弱っていらっしゃった。そのため私室で朝食を摂られることが多かったけれど、ご友人様方がメモリアに身を寄せてからは覇気を取り戻して、見違えるように元気になっていらっしゃる。喜ばしいことです。
私の隣で立っているマルチーノも同じ場所で給仕を担当している。朝礼が終わると私達二人はすぐに連れ立って、食堂へと向かった。
食堂は城の一階、中庭に面した大きなホールだ。天井からは大きなシャンデリアが吊られ、塵一つ無い床の上には四人程が囲める丸テーブルが数卓配置されている。大きな硝子張りの窓の外にはテラスも付いており、そちらで食事を摂ることも可能だ。硝子越しに差し込んでくる白々とした朝日が白い壁紙と照明に反射して部屋を明るく演出する。
さあ、無駄口を叩く暇なんて無い。仕事は確実に、かつ迅速に行わなければ。
私達は手分けしながら、ワゴンに乗せて運んできた真っ白なクロスをテーブルに敷く。それから四方に皿とカトラリー、ナプキン。中央には今し方専用の庭で切り取り姿を整えた生け花の花器を置く。壁際に寄せられていたマホガニーの椅子を運び位置を調整したら、椅子が並んでいた場所へは私達が代わりに整列した。
朝食は七時からと定められている。皆様が到着するまでは待機しなければならない。隣接された厨房では、私とは違う担当のメイドやシェフなどが腕を奮っているところだろう。
やがて壁に掛けられた大きな振り子時計が七つ鳴り、両開きの扉が外に開けられると、待ちわびたように客人の方々が続々と入られてくる。
――私がいつも仕事の始まりを意識する瞬間。
まっさきに入室されたのは、ミカゼさん。獣の顔をした少年です。黒い狐のようなそのお顔は本物ではなくてお面とのことですが、とても高性能なお面だとかで外さなくても飲食・洗顔などが可能なのだとか。辺境出身でいらっしゃるため、最初はお城の生活に随分戸惑っていらっしゃいました。とはいえ、このメモリア城は外国に比べれば特段に自由な場所。マナーについて煩く注意されることもないので、現在はミカゼさんもすっかり順応されています。
続けて、アクアさん、リュシカさん、ジール・ボーイさん、サンさん、カミッツさん――そして私達の主である、バレット王。その息子であるグリン王子。その王子殿下の護衛係兼教育係であるシュダンさん。
皆々様がそれぞれお好きな席に着かれてから、私達メイドは茶器を乗せたワゴンを押して近づきます。私はバレット様が着かれたお席へ。本日同席されていらっしゃるのはジール・ボーイさんとカミッツさんです。マルチーノは……グリン様、アクアさん、シュダンさんの着かれたお席の近くね。今日も微笑ましい気持ちになりながら、私は温めたカップにモーニングティを注いでバレット様へ差し出しました。ジール・ボーイさんとカミッツさんへも。カミッツさんは律儀に会釈をしてくれるので、こちらもにっこりと微笑みを返します。
皆様にお茶を出し終わったら、出させていただくパンのメニューを尋ねます。本日のご用意はトースト、クロワッサン、マフィン、パンケーキの四種類。バレット様とカミッツさんはトースト、ジール・ボーイさんはマフィンをご所望になられました。承ってからワゴンを押して食堂の外に出、厨房へと向かいます。
厨房の扉を開くと、そこには焼いたばかりの香ばしい小麦の匂いに、ふんわり立ち上るバターの匂い、ベーコンの焼ける匂いなどが混ざって混然としていました。慣れていない人間なら空腹が刺激されて仕方ないでしょうが、数年も勤めていると次第に慣れてなんとも感じなくなるものです。
私はワゴンの茶器を片付け、中段に新しいお皿を出し、その上に熱々のパンを並べました。冷蔵庫からは予め小皿ごと冷やしてあったサラダを出し、その隣に並べます。上段にはシェフが盛りつけたばかりのブレックファスト(目玉焼き・ソーセージ・マッシュルーム・ベイクドビーンズ・ハッシュドポテト・焼きトマト・ベーコンが一枚の皿に盛りつけてある)を並べると、ワゴンを押して再度食堂へと急ぎました。途中、マルチーノや他のメイドとすれ違います。多分グリン様達が朝食メニューで何を選ぶかで迷われたのでしょう。バレット様やジール・ボーイさん、カミッツさんはあまり選択に時間をかけないので、バレット様をお世話することが多い私は給仕一番乗りの確率が高いのです。
食堂に戻り、バレット様のテーブルを給仕を終えたら、またワゴンを押して厨房へと戻ります。今度はオレンジやグレープフルーツなどの各種ジュース、ティーポット、冷水の入った水差し、カップ・ソーサーなどを積んで食堂へ取って帰り、皆様のご要望に応じながら飲み物を注いで回ります。ご要望がなければ少し離れたところにワゴンを止めて、その側でじっと待ち続けるのが常となります。
その間、室内は決して五月蠅いほどではありませんが、皆様のおしゃべりで満ちています。特に元気いっぱいなのは、やはりグリン様ですね。古いご友人であられるアクアさん、そしてマルチーノに親しげに話しかけながら朝食を楽しんでいらっしゃいます。バレット様は静かにジール・ボーイさんやカミッツさんと現在行われているメモリア魔法陣の行方や、メモリアの――世界の敵である女神の三十指や、城下町を賑わせている斬り裂き魔の話題について意見を交わしていらっしゃいました。ミカゼさんとサンさんは、次の次に出場なさるリュシカさんに色々アドバイスをなさっていらっしゃいます。意識しなくとも自然に耳に入ってしまいますが、これらの会話を私達メイドが外に漏らすことは禁じられています。様や様の近くに侍っていることが多い私ですが、他人に喋ったことは誓ってありません。
メモリアは世界一の大国です。したがって敵も多く、城内で働く人間には厳しい身辺調査と守秘義務が課せられます。それは一メイドである私も同じこと。また、今は魔法陣を開催して他国からの客人も招いたり、敵である女神の三十指も国内に居る状況ですから、特別に警戒は厳しくなっています。魔法陣はまだ一戦目を終えたばかり。数日後にはジール・ボーイさんが女神の三十指、そして他国の参戦者と戦う予定となっています。メモリア王国、女神の三十指、他国の参戦者――三つ巴のこの争いを制した者が、禁断魔法命七乱月を使用する権利を得ることができるため、皆必死に戦っています。
悔しいですが、私はその様を見守ることしかできません。このメモリア城に仕える者は皆同様にこの悔しさを胸に秘めています。そんな私達ができるのは、皆様が心おきなく闘いへ望めるようお世話を尽くすこと。精一杯仕事に力を入れてこなすことだと、魔法陣が開催されたばかりの頃、よく同僚と話し合っていました。
闘いに直接参加できなくても、皆様を支えているのは私達一人一人の仕事です。お仕えすることは私達の意地であり誇り。魔法陣も終盤となれば危険性が増すため、おそらく城から実家へ下がるよう暇を出されることでしょうが、それまでは誠心誠意心を込めてお仕えする所存です。
朝食ホールは一時間半もすると皆様退出されるため、扉が閉められる。食堂で給仕を担当した私達十数人のメイドは清掃と片付けのため二手に分かれた。食器やクロスはワゴンに積み洗い場へ向かう担当と、ホールに残って清掃をする担当。私とマルチーノは共にホールに残る側だ。テーブルと椅子の埃を落とし、床を掃き、モップをかけ、乾拭きで木の艶目を出す。塵一つ残さないよう入念に磨き上げたら、食事の時間だ。
厨房に隣接された小さな使用人室で、パンにミルク、目玉焼き、サラダという簡素な朝食を頂く。とは言っても全て城に上げられている食材でできたメニューのため、味は推して知るべしだ。手早くお腹に収めたら歯磨きをして、次の仕事に移る。
「それじゃあマルチーノ、また後でね」
「はい、リィさん」
私は専用の庭師と共に中庭のお世話を任されている。午前中は庭にいることが多い。マルチーノは客室のベッドメイクを担当しているため、ここで別棟に移ることになる。
庭に出た私は園芸用具のしまってある物置に向かい、使い慣れた一輪車へ鋏やスコップ、肥料などを乗せて出発する。今日の向かう先は手入れの足りない植え込みだ。綺麗に形作られていなければならない植木の表面から、春の気配に踊る気の早い枝が何本も不格好に飛び出している。これを角形に刈り込み、きちんとした生垣の形に整枝しなければならない。一輪車へ積んできた大きな剪定鋏を両手で持ち、じょきじょきと形を整える。鋏の表面で小さく煌めく光が美しい。
庭木のお手入れは大好きな仕事の一つだけど、一つ文句を言わせてもらえるなら、範囲があまりに広すぎて自分一人で片付けようと思うと一日では終わらないのが難点だ。実を言うとずるをしたい。ただしサボタージュするためのずるではなく、仕事を終わらせるためのずるだ。私はちらりと周囲を見回した。遠くにしか人影は見えないけれど、王城は広くてどこに誰が居るか把握するのに苦労をする。もしかしたら近くに人がいるかもしれない。そう思うと、とてもではないけど心が萎えてしまう。ああ、でも、とっても素敵なアイデアなのに。
鋏を握る指が疼く。ちょっとだけならバレないかも――。そう思った瞬間だった。
城の三階の窓から閃光と轟音が迸り、私の眼前、植木の反対側に激突する。私は思わず鋏を持ったまま固まってしまった。……心臓が飛び出るかと思うくらい、びっくりしたのだ。ぽかんと口を開けながら回想する。さっきのは天紫の魔法だ。このメモリア城の中で雷の魔法を使う人間は一人しかいない。
そうこうしているうちに、生垣ががさがさと揺れ人影を吐き出した。予想通りの人物――グリン王子を。
「悪ぃリィさん、俺がこっちに来たこと言わないで!」
無邪気な表情と声で、グリン様は現れるなりそう仰られました。
お母様譲りの緑の髪と瞳は明るく輝き、Tシャツとジーンズといういつものラフな格好で右手にハンマー状の魔法器具を握っています。この方がお生まれになられたのは私よりずうっと昔、六〇年以上も前なのですが、時を操る禁断魔法の副作用でしばしば年を取らぬまま眠りにつかれるため、今でも一五歳程のお歳のままなのです。王子という身分ですが、バレット様の気風を受け継いだご自由な方。……確か今日は朝からお勉強のスケジュールだったと記憶しているのですが。
「グリン様、シュダンさんやハワードさんが心配されます。お部屋に戻ってお勉強の続きをなさってください」
「ええー、だって」
グリン様は唇を尖らせて、今にも逃げたそうに周囲の気配を伺っています。心苦しいですが、ここは鬼にならなければ。
「いけません。……そうですね、戻られましたら、今日のおやつに好きなお菓子を作っていきますから、ね」
「マジで!? やったー!」
飴が効きました。ほっとして胸を撫で下ろします。その時です。
「見つけたぞ馬鹿王子!!」
グリン様の頭の天辺に拳骨が振り下ろされました。ギャッと悲鳴を上げて、グリン様はうずくまってしまわれます。いつの間にか接近していたグリン様の護衛係の一人、スーツ姿で額に鉢巻きを締めているハワードさんが憤懣やるかたないといったご様子で仁王立ちになっていました。
「まったく油断も隙もない、おら帰るぞ! リィさんにまで迷惑かけてんじゃねえ」
「いってーな何すんだよ!」
「あの、ハワードさん、私迷惑なんて……」
「いやリィさんいいんですよ、この馬鹿を庇わなくても」
と遮られたのですが、まだグリン様とのお約束の話が途中です。私が何とかハワードさんを押し留めていると、遠くの方から新たにグリン様を呼ぶ声がしました。だんだん近づいてくるその方は、こちらも護衛係の一人、パンナケトルさんです。
「グリン様! ああよかった、見つかって……」
彼は薄茶の髪を短く刈っている、ハワードさんと同世代の青年です。お二人に挟まれたグリン様は観念したように膝に頬杖を突いて、すっかりぶすくれていらっしゃいました。可哀想に。
「あの、お二人ともあまりグリン様を叱らないでやってください。ちょうどお勉強に戻るとお話しされていたところだったんです」
「……ほんとですか?」
「本当だよ!」
疑わしそうにパンナケトルさんが聞くのに、間髪入れずグリン様が答えられます。私も頷いて、胸に鋏を抱き寄せながら続きました。
「三時の休憩の際のお菓子にお好きな物を作ると約束したんです。そうだわ、お二人も召し上がってはいかがですか? 折角です、仰ってください」
にっこりと微笑んで首を傾ける。途端、ハワードさんとパンナケトルさんがうっと息を呑んで固まりました。あらら? グリン様は足下からそんなお二人を変な目で見上げています。
「……じゃあ、クリームブリュレで」と、ハワードさん。
「ボクはフォンダンショコラを……」パンナケトルさん。
「んじゃ俺、イチゴタルトー」グリン様。
「はい、承りました」
一番時間がかかるのはイチゴタルト、二番目にブリュレかしら。正午から手を借りながら進めればなんとかなりそうです。
ハワードさん達は逃げられないよう真ん中にグリン様を挟んで去ってゆきました。何かの写真で見たことがある情景です……思い出しました、宇宙人を捕まえている写真の構図があんな感じでしたね。グリン様は、宇宙人では、ありませんが。
午前いっぱいを中庭で過ごし、正午の鐘が鳴り響く頃に従業員用の食堂に顔を出す。昼食と歯磨きを済ませ、身だしなみを整えたら、私は足早にグリン様のいらっしゃる本棟の厨房へと向かった。冷蔵庫から材料を取り出してステンレスの台に並べ、まずはタルト生地から取りかかる。
フードプロセッサに小麦粉、砂糖、塩を入れたら軽く混ぜ、その後細かくサイコロ状に切ったバターを追加したら再度プロセッサの電源を入れる。ぽろぽろになったら止め、新鮮な卵黄を落とし水を少々加える。もう一度電源を入れて生地がひとまとまりになったら、ゴムべらでかきだしラップの上へ。空気が入らないようにきっちり包んだら冷蔵庫で一時間休ませる。この間にタルトの底に敷くアーモンドクリームとカスタードクリームを作ってしまおう。
ボウルに常温に戻したバターを入れ、ハンドミキサーでかき混ぜる。形が崩れたらグラニュー糖を投入。引き続き混ぜているとだんだん白っぽくなってくるので、見計らってアーモンドパウダーを加える。さらに混ぜてから、全卵を一つ、ラム酒を小匙一杯程度追加。全体が馴染むまでかき混ぜたらアーモンドクリームの出来上がり。ミキサーの刃からへらでこびりついたクリームをボウルに落として、これもラップをかけて冷蔵庫で冷やす。
ミキサーを洗ったら、私はまた新しいボウルを取り出した。卵黄を三つ入れて溶きほぐしてから砂糖を加え、またミキサーで白くなるまで混ぜる。薄力粉とコーンスターチを振るい入れたらさらに混ぜ、偏りが無くなったところでミキサーの電源を落とした。次に鉄の小鍋をコンロにかけ、牛乳を注ぎ、バニラビーンズを入れる。沸騰直前まで温めたら火を落とし、ボウルに少しずつ注ぎながらゆっくりとかき混ぜた。ミルクパンの中身が無くなり、ボウルの中身が均一になったことを確認したら鍋に戻す。火は中火。焦げ付かないように慎重に、泡立て器でクリームを混ぜ合わせる。湯気が立って表面がふつふつと立ってきたら火から下ろす合図だ。鍋にバターの欠片を落として溶けきったらバットにクリームを流す。カスタードクリームは空気に触れると固まりやすいので、手早く流し終えたらラップで覆い、調理台の上で放置する。ある程度冷めるまではこのままだ。
さて、まだタルト生地を取り出すまでには余裕がある。私は洗った小鍋に生クリームと牛乳を入れ、弱火にかけた。その間にボウルに卵黄と砂糖を入れ、刃を代えたミキサーで混ぜ合わせる。鍋の中身が人肌程度に温まったら火を消して、ミキサーで混ぜていた卵液に少しずつ鍋の中身を加え、よく混ぜる。バニラビーンズも加えたら漉し器を通し、あらざなどを取り除く。綺麗になった卵液をココット皿に流し入れたら、湯を張ったオーブンの天板の上へ。そのまま、予め一三〇度で温めていたオーブンで五〇分蒸し焼きに。
ここまでで一時間が立ったので、私はカスタードクリームと交換で冷蔵庫からラップに包まれたタルト生地を取り出した。綿棒を取って三ミリの厚さに伸ばす。タルト型に敷き込み、フォークで生地に穴を開け、型からはみ出た部分は切り落とす。底に冷やしていたアーモンドクリームを敷き詰めたら、二〇〇度のオーブンで三〇分コースへ。
ここまで終えて、私はようやく一息吐いた。椅子に背を預けてうんと伸びをする。これでクリームブリュレはオーブンから出したら冷やしておけばいいし、仕上げのキャラメリゼはお出しする直前にするものだからもう手が掛からない。タルトは焼きあがったら冷まして、その間にカスタードクリームを漉して滑らかにしよう。
オーブンから小麦粉とアーモンドの焼ける匂いを嗅ぎつつ、時計に目をやる。一三時四五分。そろそろフォンダンショコラのチョコを砕いておこうかな。
私が段取りを確認していると、厨房の扉が開きました。入ってきたのは、ツインテールの髪を揺らした女の子。リュシカさんです。
「おじゃましまーす」
リュシカさんは故郷のアルカナ大陸で、若干一五歳の若さでパン屋さんを経営されていらっしゃったとか。そのパン作りの腕に並ぶものなし、と言っても過言ではないほど大変美味しいパンを焼くことのできる方です。去年行われたメモリア魔法大会にもパン職人として参戦されました。メモリア城の料理人も舌を巻く程の腕前なのです。それ故によく厨房に顔を出してはパンを作っていらっしゃる、顔馴染みの客人でした。
「わぁ、いい匂いですー。何を作られてるんですか?」
「グリン様のおやつです。タルトとブリュレを。まだ焼いていませんが、フォンダンショコラも作ることになっていて」
答えると、リュシカさんは目を丸くして仰られました。
「リィさん凄いですねえ……」
「そんなことないですよ、」私は慌てて否定しました。
「確かにお料理は得意ですけど、リュシカさんみたいに美味しいパンは作れませんもの」
「そんなこと言ったら、私もパン以外の料理、リィさんにかないませんょ」
「……じゃあ、リュシカさん、お菓子作り手伝ってみます?」
王子に出すものですが、リュシカさんが作られたものなら大丈夫でしょう。そう続けると、リュシカさんはひゃっと声を上げて、「いいんですか」と不安そうに尋ねられました。
「大丈夫ですよ。逆に喜ばれます」
そのご様子を想像するのは簡単でした。きっとグリン様はご友人が作られた料理ならなんでも喜んで頂くでしょう。告げると、リュシカさんは照れくさそうに笑って、私にお願いしますと頭を下げられました。
午後三時。お茶の準備に下りてきたマルチーノを伴って、私とリュシカさんは王子の勉強部屋へと入ります。グリン様は机に身を投げ出されてぐったりしていらっしゃいましたが、私達が入ってくるのに気づくとぱっと顔を明るくされました。
「やった、おやつだー!」
「三〇分だけですよグリン様」
「分かってるよ! いちいちうっせーな!」
お部屋の中には午前中にお会いしたハワードさん、パンナケトルさんの他にも、シュダンさん、ハイロゥさん、ブラウリーさんというグリン様の護衛兼教育係である皆様が揃っていらっしゃいました。よっぽど疲れていたのか、グリン様はハイロゥさんにいーっと歯を剥き出して唸ります。と思うと跳ねるように私達に駆け寄って、ワゴンの上のお菓子の匂いを嗅がれました。
グリン様にはお約束通りイチゴタルト。ハワードさんにはクリームブリュレ。パンナケトルさんにはフォンダンショコラをお出しします。お菓子は複数作ったので、他の護衛係の皆さんにはお好きな物を取っていただきました。
と、そんな中、部屋の扉が開いて新たなお客人が顔を見せられます。バレット王の古くからのご友人、アクアさん。そしてミカゼさんです。
「やっほーグリン、遊びに来たよ。おやつちょーだい」
「アクアはお菓子欲しいだけだろ、ついでに遊びに来たんじゃなくて俺のことからかいに来たんだろー」
「おやよくわかったね」
「わからいでか!」
アクアさんは年端もいかぬ少女のような見た目をしていらっしゃいますが、その実百歳を超えるお年寄りです。お話ししていると見た目と中身のギャップに戸惑うことも多い方。ですがグリン様とは幼少の頃からのお付き合いのため、随分と気安くていらっしゃいます。今もグリン様へ取り分けたタルトを取り上げて、あっという間に食べられてしまいました。グリン様が悲鳴を上げます。
「あー! 俺のー!」
「いい男はがたがた言うもんじゃないよ、みっともない」
「グリン様、まだたくさんありますから……」
マルチーノが慌てて新しいピースをお皿に乗せてグリン様に差し出します。受け取ったグリン様はアクアさんから距離を取ると、恨めしそうに睨みつけながらフォークをタルトに突き立てました。
「しかし流石、美味しいですね」
パンナケトルさんがフォンダンショコラにフォークを刺し、とろとろに溶けた中身を生地に吸わせて口に含みながら仰られました。私は紅茶を淹れながら頭を振ります。
「今日は途中までは私が作ったんですが、最後の方はリュシカさんが作ったんですよ」
「へえ」アクアさんが感嘆の声を上げて、リュシカさんを見やりました。
「タルトの苺の盛りつけと、フォンダンショコラはリュシカさん作なんです。やっぱり料理ができる方はお上手でした」
「へえ、やっぱり器用なもんだなあ」
ハワードさんがしげしげとタルトを見下ろしてそう言いました。初めてとは思えないくらい、同心円上にカットされた苺が綺麗に並んでいます。うーん、複雑な心境。
「リュシカさん、もしよければ、パン作りのコツ教えてくださいね。私パンも上手くなりたいんです」
私は本心から申し出ました。料理も洗濯も掃除も嫌いではないし、できるだけ腕を磨いているのですが、どうしても他人に劣るものというのはあるものです。私にとってはそれがパン。理由はなぜだかわかりませんが、私は切るのが一番得意な代わり、どうもこねるのが上手くないのです。でも、達人であるリュシカさんなら原因を指摘してくれるかもしれません。
リュシカさんは心よく頷いてくれました。それにほっと胸を撫で下ろし、私はお礼にダージリンを差し出しました。
空気は和やかに流れています。でも、そんな中で一人静かにしていらっしゃる方がいて、私は思わず声をかけてしまいました。
「……ミカゼさん、お元気がないようですけど、どうかされましたか?」
そう、ミカゼさん。いつも元気な方なのに、今日はこの部屋に入られてからクリームブリュレを目の前に、とても静かです。
ミカゼさんは私の声に気づいてこちらを見上げられてから、物思いに耽るように窓の外を眺めました。
「――俺の故郷、ミルホット村で、きのこブリュレってのが出たことがあって」
「は、はあ」
きのこがどうブリュレなんでしょう。気になります。
「味はリィさんが作った方が美味いに決まってるんですけど、なんか思い出しちゃって……」
ホームシックなんでしょうか。肉体系かと思っていたんですが、案外繊細な方なのかしら。正直返答に困ります。ミカゼさんの額の顔のような模様も、心なしか困ったような形をしているように見えました。――気のせいですよね。
夕食の時間は他の食事よりもゆっくり過ごすことができる。勤務中はあまりできないお喋りも、この時間は問題ない。私はあまり食事中の会話には加わらないタイプなので、食べ物を口に運びながら聞きに徹していた。話題は様々だ。始まったばかりのメモリア魔法陣のことだったり、外国の客人の風習だったり、来週のお天気だったり。パンを千切って咀嚼していたら、同期に突然「気をつけなさいよ」と声をかけられ、なんのことかわからず聞き返してしまった。
「ごめんなさい、食べるのに集中してみたいなの。何の話だった?」
「やあねえ、もうリィったら。斬り裂き魔よ」
斬り裂き魔。ここ数ヶ月、メモリアを騒がせている連続殺人鬼。狙われているのは若い女性ばかりで、年齢も性別も不明の謎の犯罪者。警察の捜査も行き詰まっているらしいとの噂が流れている。
「リィは美人なんだから、街に下りるときは注意した方がいいわよ。防犯ブザーとか持ってる?」
「確かに今度のオフは久しぶりに街に行くけど、大丈夫よ」
「そんなこと言ってる娘が狙われるのよ」
「私なんかよりマルチーノくらいの娘の方がきっと目をつけられるわ」
斬り裂き魔は気に入った女の子を殺すんだもの。だから、私は、殺されない。
私を心配してくれている同期の彼女には悪いけど、これは絶対なの。
今日のシフトは夕食後に仕事上がりだったので、私は早々に寮に戻った。化粧を落としてすっきりしたらバスタブに湯を張ってオイルを垂らし、浴室内に蒸気を充満させてから入浴を楽しむ。今日のバスオイルは奮発した黒薔薇。香りを胸一杯に吸い込んでリフレッシュする。こういったものを気兼ねなく購入できるのは女子の特権ね。ああ、あとどれだけこの生活が続けられるかしら。
バスタブの縁に頭を凭れさせ天井を見上げる。白い蒸気に撒かれてオレンジ色の照明は柔らかく光を揺らめかせていた。温い湯が眠気を誘う。私はとてもいい気持ちになりながら呟いた。
「ああ、早く次のオフにならないかな」
気分が高揚していた。ようやく訪れたこの日――そう、待ち侘びていた約束の日だ。足取りも軽く踊るように進む。何度か腕を振るう。柔らかさと固さが同居した、生暖かく重い何かに触れる。腕を振り抜く。視界に赤いものが散る。よく知った城内、よく知った人達、よく知った臭い。噎せ返るような鉄の香りが私を包む。懐かしい。安心する。バニラと砂糖と小麦の甘い匂いとは全く違う。そう、ここがボクの居場所だ。ボクの大好きな色が支配する居場所だ。ボクがボクでいられる場所。この星の上で最も安心する光景。さあ、居場所を増やそう。ボクがボクであるために。彼女に会いに行こう。マルチーノ。愛しい彼女に。特別なあの娘に。本当のボクを知ってもらうために。
ボクの刀が踊る。私の作ったお菓子を食べた人が倒れる。その手からこぼれた通信機を拾い、ボクは今までの私に別れを告げる。
「…………こんにちは、バレット様」