プリティ・チャーミィ・セクシー・バニー
この島の人間たちは、つくづくイベントごとが好きらしい。
――来るんじゃなかった。
今日何度目かの後悔をしながら、総士は俯いた。両手はグラスの汗でぬるついている。烏龍茶の丸い水面に映る自分自身がどんよりとした眼差しで見返してきた。予測できたんじゃないのか、と言わんばかりの目で。
かもしれない。クリスマス直前に帰島したあの二人から、「今年は準備が間に合わないので〈楽園〉でのパーティーや忘年会はしない」と告知された時、別の催しに彼らが参加する可能性を考えておくべきだった。であれば、こんな風に鉢合わせはしなかっただろう。こんな、完全に想定外の出会いを。
別に真壁一騎が嫌いなわけじゃない。そう、嫌いなわけじゃないのだ。ちょっと会うのに気構えが要るだけで。だから顔を合わせるのだって問題ないし、ささやかな世間話だってしてやってもいい。ただ、それはあくまでもっと平常な場での話であって――
「総士、どうした? 気分でも悪いのか?」
「わっ!?」
喧騒の中、背後からかけられた声に思わず肩が跳ねる。その拍子に烏龍茶がグラスから飛び出し、履いていたジーンズを色濃く染め上げてしまった。
「あっ」
「び、びっくりするだろ! 急に近づくなよ!」
声の主――一騎を直視できない。彼女が近くにいるだけで、いや、同じ空間にいるというだけでそわそわする。
冬だというのに顔が熱くて汗が吹き出てくるのは、きっと暖房が強いせいだ。そうに違いない。
テーブルの上に放置していたおしぼりを引っ掴んで、ジーンズの太ももに染みた烏龍茶を拭う。もともと湿っているせいで何回拭っても湿り気が消えない。自然乾燥に任せるしかないか、と舌打ちしかけたその時、横からぬっと現れた腕がおしぼりを取り上げて、代わりにキッチンペーパーが充てがわれた。
「それじゃ無理だろ」
指輪の痕がない白い手が、総士の太腿に触れる。濡れた生地にペーパーを押し当て手のひらで密着させてくる。
腿の内側に、指が当たる。
総士は美術の時間に使う石膏像のようにかちんと固まって、今しがた自分の斜め後ろに片膝をついた一騎の姿を見下ろした。
袖口の白いカフス。そこから伸びる黒い長袖。大きな付け襟に、真っ黒な蝶ネクタイ。
ヘアオイルでもつけているのだろうか、いつもより艶めいているボブカットの頭上には、ピンと立った二つの、黒い、耳。
コルセットベストのようになっている燕尾服風の上着に、黒いビスチェに覆われた大きな膨らみ。
ノートゥング・モデル時代のシナジェティック・スーツさながらの際どい脚ぐりからすらりと伸びる、網タイツに包まれた腿。
バニーガール姿の真壁一騎に、お世話されている。
気が遠くなりそうだ。そんな格好悪いこと、死んでもしないが。
太腿がくすぐったい。ぞわぞわする。悪寒じゃないやつだ。じゃあなんなのかって深く考えてはいけない。
動いてはいけないし悟られてもいけない。心を無にして耐え忍ぶしかない。
早く終われ、早く終われ、早く終われ……と念じ続けてどのくらい経ったのか、ようやく一騎が身を起こした。フェストゥムと戦っている時よりも緊張を強いられていたかもしれない。総士はほっとして、思わず肩を動かし――一瞬、むにっ、と腕に当たった感触に、再び停止するはめになった。
固い布地越しの、柔らかい肉の重みに。
「………。わ、わざとか……?」
「……? 何がだ……?」
ぎぎぎ、と錆びついたブリキ人形のように頭を回して尋ねると、立ち上がった一騎はきょとんとして首を傾げた。これっぽっちも気づいていないようだ。それとも、総士のことなんてまだ幼児と同じだと思っているのだろうか。ますます顔がひきつってくる。どうして自分ばっかりこんなに心乱されなければいけないんだろう。気に入らない。全くもって気に入らない。隣の席にいるというのに、一切口を挟まず助けも寄越さずにジンジャーエールをにこにこ飲んでいる美羽のことも気に入らない。
そもそもが美羽のせいだ。数日前、同居人である真矢が「堂馬食堂でアルヴィスのクリスマスパーティー兼忘年会があるけど、二人とも来る? ご飯タダだよ」と誘った時、真っ先に手を上げて「行くーっ!」と言い出したのが美羽だ。クリスマスの日に広い家の広い居間に総士を残して、独りぼっちの食卓につかせる気だったのか? そこまで考えが回らなかったのかもしれないが、それにしたって、ない。
(美羽が! 行くって! 言わなきゃ! 僕も!)
「総士くん、もっと食べなさい、ほらほら」
向かいではふにゃふにゃになった真矢が普段の三割増しの甘い声音で、総士の取り皿にぽいぽい料理を入れている。頬はすでに真っ赤だ。いつものクールさはどこへ行ってしまったのか、瞳もとろんとして、あどけない少女のようで可愛らしい。
「遠見、あんまり飲みすぎるなよ」
「えー? 飲んでないよぉ?」
「……飲んでもいいけど、水も飲めよ」
「わかってるよぉ、うふふ、かずきくんかわいいねぇ。ねー、こっち来て、お酌してよぉ」
ちょっと親父が入っているかもしれないが、総士は全力で気づかないことにした。
「すいませーん! 飲み物ー!」
「はーい!」
向こうのテーブルから注文が飛ぶ。真矢に手を引かれて困り眉になっていた一騎はこれ幸いとばかりに優しく指を解いて返事をし、燕尾を翻して行ってしまった。
大きな白い尻尾をふりふり揺らしながら。
「あーあ、一騎くん行っちゃったぁ」
「お姉ちゃんが注文したらすぐ来てくれるよ」
「そうかな。そっかあ。そうだね!」
落ち込むのも早ければ、ご機嫌になるのも一瞬だ。真矢は満面の笑みでビールのジョッキを飲み下すと、飲み放題のメニューを手に取って悩み始めた。
一騎は先程呼びつけてきた人から注文を取り終わったらしい。お盆に空き皿を山と積んで厨房に向かっている。15センチもあるハイヒールを、完璧に履きこなして。
ピカピカ光る黒いエナメルのパンプスは前底も厚く、まるでマークアレスの脚部のようだ。あんなの絶対歩きにくいのに、一騎の歩みには一切のブレがない。不思議なもので、むしろ姿勢が良くなって見える。難なく厨房に辿り着くや否や、彼女はてきぱきとドリンクを作り始めた。
そもそもの食堂の店主である量平と舞は、厨房の中で調理するのに手一杯になっている。人員がいなくなったホールへ代わりに出てきたのは、これまた男っぷりに拍車をかけた、甲洋だった。こちらも燕尾服風のジャケットを着用したギャルソンスタイル。ハーフアップにした髪が得も言われぬ色気を醸し出している。同性の総士から見ても、少しドキっとしてしまうほど格好が良かった。美丈夫というのは彼のためにある言葉なのだろう。女性陣は彼が近くを通る度きゃあきゃあ悲鳴を上げては身を捩っていた。
店内のあちこちは赤と緑で飾り付けられ、片隅には電飾の付いた大きなクリスマスツリーまで置かれている。そのおかげか、一騎と甲洋のいっそ場違いとも言える装いはほとんど全ての参加者に受け入れられていた。
受け入れていないのは、総士と史彦くらいだった。
司令という立場なのに、史彦は会場の隅っこでむっつりとしたままジョッキを傾けていた。全身から「誰も話しかけるな」という空気が発されている。宴席でバニースーツ姿の一人娘が見世物にされているのだから無理もない。あんなに狼狽した司令を、総士は初めて目の当たりにした。
瞼を閉じればすぐに思い出せる。数十分前のことだ。真矢たちにくっついて堂馬食堂にやってきた総士は、店の入口をくぐるなり度肝を抜かれてしまった。フィクションの中でしかありえないような姿を、あの真壁一騎がしていたからだ。
「いらっしゃい、三人とも」
和やかな挨拶は見慣れたものだが、いかんせん、格好が格好だった。
「ち……っ、」
痴女じゃん! という叫びを無理やり飲みこんで、総士は目を彷徨わせながら指差した。
「なんて破廉恥な格好をしてるんだ!」
「だって、」
一騎は悪びれもせず、肩を竦めながら、手元のバインダーの参加者表にレ点を書きこんだ。
「溝口さんが文化保存活動の一環だって言うし……立上のおばさんもなんかすごいやる気で断れなかったし。まあ、いいかなって」
「そうは言っても、限度ってものがあるだろ!?」
「うーん……」
「一騎お姉ちゃん、かわいい……」
「ありがとう……?」
美羽は目を輝かせてバニースーツ姿の一騎を見つめている。まさかとは思うが、自分まで着たいとか言い出すのではなかろうか。女子はよくわからない。助けを求めて真矢を振り返ると、彼女は「溝口さん……」と顔を覆って、大きなため息をついていた。
「やあ、寒かっただろ。どうぞ、上着脱いで」
続けて出迎えたのは、奥から出てきた甲洋だった。彼まで衣装が違う。堂馬食堂はいつから高級料理店になってしまったのだろう。何も言わずに女性陣から上着を受け取る動作も堂に入っている。実にスマートだ。
「お兄ちゃんも似合うねえ……!」
「ありがとう」
美羽の称賛に返す礼も手慣れている。伊達男すぎる。
もしかしてここは一騎を褒めるところなのだろうか? と総士が一人悩んでいると、背後で扉が開く音がした。反射的に振り返る。溝口と、史彦だった。
「メリークリスマース! おっ、やってるねえ!」
「いらっしゃい、溝口さん。父さんも」
溝口はいつもの如く陽気だ。入ってくるなり、史彦の肩を大きく叩いている。その史彦は戸口で呆然と立ち尽くしたまま愛娘を見つめていた。見ていられなくて、真矢と総士はそっと目を逸らした。
「席、案内するから」
一騎は平然としている。これは前もっての相談などしていなかったに違いない。
史彦はたっぷり三十秒は沈黙してから、険しい顔をして溝口に詰め寄った。
「溝口、これはお前の仕業か」
「ご挨拶だな~! ちゃんと予算申請は出したしハンコついたのはお前だろ?」
「申請……あれか!」
「ちょっと溝口さん、父さん、後ろがつかえるから早く入れよ」
「待て一騎、まさかその格好で給仕する気か」
「父さんの言いたいことはわかるよ。でも……頼まれたことだし。それに、シナジェティック・スーツよりは生地がしっかりしてるだろ。だからそんなに恥ずかしくないかなって」
「それはそうかもしれんが……!」
「心配しなくたって大丈夫だよ」
父親の愛情などどこ吹く風、といった様子で一騎は背を向けると、燕尾と白い尻尾を左右に振りながら「親父さん、父さんと溝口さん来ましたー」と無慈悲に厨房へと去っていった。
「……まあ、本人がああ言っているので……」
残された史彦に甲洋が声をかける。溝口は愉快そうににやにやと笑ったままだ。
促されるまま席に移動しても、史彦は挙動不審だった。立ち上がったかと思えばすぐ座り直す。一騎が移動するたびに目で追い始めるのだが、しばらくすると項垂れる。続々と増える参加者が老若男女問わず驚く様を睨みつける。乾杯の音頭を取る時も言葉を噛む始末だった。
一方、一騎は注文を取ったり配膳で忙しく立ち回っていた。自分に注がれる好奇の視線は気にならないらしい。真矢は最初こそ一騎のバニースーツ姿に顔をしかめていたが、ついに自棄になった。頻繁に一騎を呼び止めてはアルコールを頼んで絡み始め、一騎はそんな彼女を宥めるのに一苦労していた。
「ねえ、なんで言ってくんなかったのぉ?」
「秘密にしろって言われてたんだ。ごめんな」
「もー、カメラ持ってくるんだったあ」
「それは……ちょっと。流石に」
「バニーな一騎くん、私だけの宝物にしたかったのになあ、ちぇ~」
ここまで酔っている真矢は見たことがなかった。普段とのギャップがすごい。あの頼れる年上の格好いいお姉さんぶりは欠片もない。ギャップといえば一騎も同じ、もしくはそれ以上だ。こんなノリに付き合ってくれる人なのか。
真矢にドキドキしているのか、一騎にドキドキしているのか、総士はもう自分で自分がわからなくなってきていた。
(真壁一騎め……!)
そんなわけで、いつも総士の心をかき乱す原因の彼女を見ないようにしていたら、お茶を溢してしまったのである。
「ふふ、もうのめないよぉ……」
「お姉ちゃん、終わったよ、起きて」
典型的な酔っぱらいの台詞を口にして、真矢は幸せそうにテーブルに顔を伏せてしまった。美羽が揺さぶっても起きやしない。ようやく宴席がお開きになったというのに、どうやって連れ帰ろうと二人で顔を見合わせていると、「いいよ、俺、送ってくよ」と一騎が近寄ってきた。
「片付けは堂馬さんたちと甲洋がやってくれるって言うし」
バニースーツの上からコートに腕を通している。本気のようだ。
「お、お前、その格好で外出る気か?」
「着替えるの大変だからな」
手際よく真矢に上着を着せたかと思うと、一騎は軽々と彼女を背負って立ち上がった。それから、傍らの大きなトートバッグを総士に手渡してくる。見た目に反して軽い。
「悪いけど、これ持っててくれるか?」
「なんだこれ」
「俺の着替え」
「ぼ、僕に渡すな!」
中を改めようとしかけていた総士は、慌ててバッグを美羽に押し付けた。
「ちょっと総士」
「美羽と遠見さんの荷物を僕が持つから!」
「もー、しょうがないなあ」
普通、女性の着替えを子供とはいえ男に押し付けるか? なんで美羽もわからないんだろう。総士の周囲はデリカシーのない女性ばっかりだ。
日野家に帰り着く頃には、時計の針は22時を指していた。
人一人背負って、申し訳程度の街灯が光る夜道、しかも坂道を不安定な足元で歩いていくのは相当難しいと思うのだが、一騎は健脚だった。スピードは落ちないし、一度も脚を休めない。同じことをしろと言われたら自信がない。今の総士では何十メートル進めるかどうかだろう。身体、もっと鍛えよう……と決意しながら、総士は真矢の部屋のドアを閉めた。
真矢は結局一度も目を覚まさなかった。一騎と美羽が首元と腰回りを緩めて布団に入れる時も覚醒しなかったので、朝まで起きてこないに違いない。
美羽が大きく欠伸をして、目を擦る。
「ねむーい……総士ごめん、先にお風呂もらってもいい?」
「いいけど、寝落ちするなよ」
「しないもーん」
ふふ、と一騎が微笑む。美羽は舌を出して笑った。一騎にお礼とおやすみを言って、風呂を張りに浴室の方へと向かっていく。
美羽は長風呂だ。寒いから早いとこ上がってほしいが、どのくらいかかるかわからない。待ってる間に自分が寝落ちしないようにしないとな、と心の中で呟いて、総士も欠伸を噛み殺した。
「じゃあ、俺はお暇するな」
一騎がトートバッグを拾って、玄関へ進もうとする。総士はそのまま見送ろうとして、はたと気付いた。
「待て。まさかその格好のまま帰る気じゃないだろうな」
「そのつもりだけど」
「ばか! 着替えてけ!」
コートを着てるとは言え、その中身はバニースーツだ。とっくに取ればいいのにウサ耳はそのまんまだし、これで何も知らない他の島民に遭遇したら、エースパイロットがち…ち…痴女になったと思われてしまう。
とは言うものの、咄嗟に口に出したせいで着替え場所のことを全く考えていなかった。脱衣所は美羽が使っているから駄目だ。真矢の部屋は真矢が寝ているから起こしたくない。美羽の部屋に勝手に入るのも気が引ける。居間は……共用の生活空間で着替えられるのも、気分的によろしくない。
となると、消去法で決めるしかなかった。
自分の部屋の前で、総士はそわそわしていた。
扉一枚隔てた向こうには一騎がいる。総士の部屋で一旦半裸になるのだ。着替えとはそういうことだ。ああいう衣装をどういうふうに着替えるのか考えそうになって、思い切り頭を振る。考えてはいけない。早く終わらないだろうか……と意味もなく廊下を行ったり来たりしていると、部屋の中から総士を呼ぶ声が聞こえた。
「ごめん、総士、ちょっと」
「なっ! な、なに」
一騎が閉じこもってからまだいくらも経っていない。何かあったのだろうか、と耳を澄ませると、驚くような返事が返ってきた。
「背中、ファスナー噛んじゃって。手伝ってくれないか」
「は?」
「だから、一人じゃ脱げないんだ」
瞬間、総士の脳内には様々な考えが去来した。
遠見さん送る前に着替えておけばよかったじゃないか。もしくはお前じゃなくて春日井さんとか、別の人に送ってもらうべきだった。着替えるなら美羽が入浴する前に手伝ってもらえばよかったんじゃないのか。なんで僕が。なんで。
だが総士がここで手伝わない限り、ずっと部屋から締め出しを食らうのは間違いない。
年季の入ったドアが、ギィ、と軋む。総士は恐る恐るノブを回して、そろりと自室に滑り込んだ。
床に耳付きのカチューシャが落ちている。カフスも、あのジャケットも、付け襟と蝶ネクタイも。
室内の真ん中、バニースーツとタイツだけ着用した一騎は、困ったように総士に笑ってみせた。
「ほんとにごめんな。ファスナーの上の方で噛んじゃって、うまく力が入らないんだ」
総士はごくりと生唾を飲んで、一騎に魅入っていた。
足ぐりのカットが、こんなに際どいなんて気づいていなかった。腰骨まで見えるハイレグで、脚が長く見える。よく見たら網タイツの下は黒の薄いストッキングだ。スーツの中に縫い込まれているというボーンで支えられたバストの谷間は深く、カップに覆われていても豊かな膨らみを隠しきれていない。
こめかみが痛くなってきた。
「壁に手ついておくから、下ろしてくれ」
一騎がくるりと反転してその通りのポーズを取る。総士は思わず、喉奥で悲鳴を噛み殺した。
「……? 何か言ったか?」
「な、なんでも、ない」
「そうか。悪いけど、頼むな」
もう絶対に振り返らないでほしい。今の総士の顔を見られたら、朴念仁の一騎でも気づいてしまうかもしれない。
総士に向けられた一騎のヒップは――丸出しだった。いわゆるTバック。お尻部分はスーツで隠されておらず、網タイツに覆われているだけ。安産型の形のいいお尻は横に張り出してむっちりと大きく、ちょっと上に丸い兎の尻尾が付いている。お尻から踵まで続くバックシームがなんとも艶めかしい。
そして、尻肉のあわいから覗く、局部の――
もう一度、唾を飲み下す。もし、もしもの話だ。ファスナーを下ろすんじゃなくて、このまま腰骨を掴んで、下半身を擦りつけてやったら――この人はいったい、どんな反応を返すんだろう。
「あ、ついでに尻尾取ってくれ。スナップで付いてるから」
「わ、かった」
心臓がうるさい。声が上擦らないようにするのが精一杯だ。手が震えている。できるだけ一騎自身に触らないようにして、総士はふわふわの尻尾を握りしめた。ぷち、ぷち、とスナップボタンが外れていく。簡単なことだ。ほんの僅かな時間で尻尾を取り外して、総士は床にそれを転がした。簡単なこと。そう、ファスナーを下ろすのだって、同じくらい簡単なはずだ。
深呼吸する。左手でスーツの端を掴んで、右手でスライダーを摘む。震えのせいで力が入りくい。できるだけ力を込めやすいよう、少し一騎の近くへ寄ったその時。
「ん……」
身動ぎした拍子に突き出された尻が、総士の下腹部へ、ぐいと押し付けられた。
「……っ!」
弾力のある肉の質感は、デニムの固い生地をやすやすと貫通した。悲鳴を上げる暇もなかった。下半身がぞわりと震えたかと思うと、そこを中心として全身の肌が次々に粟立っていく。膝の力が、かくんと抜ける。
倒れる。
総士は無我夢中で、眼の前の背中にしがみつこうとした。
「わっ?」
「……ご、ごめ……!」
一騎の剥き出しの肩に顔を押し付けて、総士は小さく謝った。
頬に感じる滑らかな肌はひんやりとして気持ちがいい。ウエストを反射的に抱きしめてしまった腕が、しなやかな体躯とその細さをありありと教えてくる。なのに、一騎は微動だにしなかった。驚嘆すべき体幹の強さだった。
一騎の背中に覆いかぶさったまま、総士はあまりの情けなさに目を閉じた。
絶対、ばれてる。
何がって、一騎のお尻にくっつけたままになっている正直な下半身のことだ。
終わった……と絶望に双眸を淀ませていると、一騎はのんびりと声をかけてきた。
「どうした、総士。おんぶしてほしいのか?」
「………っ!」
前言撤回。この人、唐変木にも程がある。
「……そんなわけ、ないだろ。ちょっと、足が滑っただけ、だから」
「そうか」
総士の虚勢に気づいているのかいないのか、一騎は笑うだけで何も言わない。
落ち着け。
がくがくと笑う膝を叱咤しながら総士は深く呼吸した。
落ち着くのだ。平静を保て。しっかりしろ。静まれ。ちょっとお尻の感触を味わったからって、それがなんだ。背中がつるすべで気持ちいいとか、今至近距離で嗅いでる体臭が甘くていい匂いがするとか、全然関係ない。抱きしめた胴体がすごく細くて心配になるとかもない。腕の上に当たってる胸が……すごく重たくてずっしりしてるのも、自分を乱す要因には、ならない。ならないったらならないのだ。
総士はぶるぶる震えながらも、なんとか足に力を入れ直した。慎重に腕を解いて上体を起こす。再びアクシデントが起きないよう間合いを取りつつ、改めてファスナーに指をかける。布を噛んでしまっている部分を確認し、一旦一番上までスライダーを戻す。それから――痛くなるくらい力を込めて、一気に引き下ろした。
目論見は成功した。じゃっ、と音を立ててスライダーが下止したどめに当たって、止まる。途端に、蛹が羽化するようにスーツが背中から割れていく。
その全てが、スローモーションのようにゆっくりと見えていた。
一騎の真っ白な背中越し。外れかけていくスーツから開放された、大きな二つの膨らみ。ぷるんと撓んで揺れる豊満なシルエット。
当然のことだった。総士が脱がせたのだから。
「―――っ!!」
目と鼻の先にいる一騎は、今や半裸だ。動転した総士は勢いよく離れようとして、バランスを崩してしまった。
「わ、あっ……!」
腕を振り回した挙げ句、背中から転倒する。受け身など取る余裕もなかった。後ろ頭を強打すると覚悟して強く目を瞑り、歯を食いしばった刹那――身体が浮き上がって、総士ははっと目を見開いた。
「総士!」
眼前に飛び込んできたのは、真剣な一騎の眼差しだった。
「大丈夫か?」
ぽかんと口を開けたまま、総士は返事ができなかった。
両手両足は宙ぶらりんで、床についていない。浮いている。正確に言うなら、抱えられていた。
背中から頭にかけて支える右腕と、腰に回された左腕で。一体どこにそんな力があるというのか。総士の片腕はバランスを取ろうとした時のまま頭上に掲げているせいで、二人はまるでアーカイブで見たバレエのポーズか何かを取っているようだった。
しかし、今重要なのはそれではない。
総士が着ているセーターの胸元に、脱ぎかけのバニースーツから溢れた巨大な乳房が、どっしりと鎮座ましましていた。
双丘の谷間は縦に深く、長い。先端は見えなかった。押し付けているせいで見えないのだ。
「……っっっっ!!」
「あっ、こら」
声にならない叫びを上げて、総士は考えなしに手足を振り回した。
まずい。これは非常にまずい事態に陥りかけている気がする。ほんとにやばい。今すぐ離れないと、なんだか色々と取り返しのつかない状況になる。間違いなく!
遮二無二暴れたせいでがくんと体勢が崩れた。あっと思う暇もなく、今度こそ頭から落ちる……と思いきや、一騎は素早かった。総士を抱きしめたまま身体を反転させ、自分を下敷きにベッドに転がったのだ。
二人分の体重に、マットレスのスプリングとベッドフレームが大いに悲鳴を上げる。総士は抱きしめられたまましばらく目を瞑っていたが、揺れが収まると我に返った。慌ててベッドに手を着いて身を起こす。
「ご、ごめんっ、」
二人の間で、ばちん、と何かが弾ける音がした。
へ? と視線を落とす。きょとんとこちらを見上げる一騎と目が合う。歳上なのにあどけなさを残す顔の真横に、肌色の二枚貝めいたシリコン製の何かが落ちている。その下、総士がベッドに着いたはずの両手は柔らかいものを握りしめていた。
まろやかな曲線を描いている、一騎の乳房だった。
親指と人差し指の間から覗く乳輪は薄く桜色に色づき、かすかにふっくらと盛り上がっている。その中心、つんと尖った先端はほんの少し色を濃くした桃色に染められていた。
両の指の間からはみ出る乳肉は少しひんやりとしているのに、奥からぬくもりを感じる。力を入れればどこまでも沈んでいきそうなほど柔らかく、びろうどのように滑りがよい。総士の手では到底収まりきらぬ、たわわに実った双乳であった。
寒い部屋の中、しばし互いの息遣いだけが響いていた。
「……ごめん!」
どれくらいそうしていたのか、最早わからなかった。やがて総士は両目を固く瞑り、ベッドから転げ落ちた。尻もちを着いて膝を抱え込み、必死で目を背ける。ぎし、とベッドが軋む音がした。一騎が身を起こしたのだろう。
「俺は大丈夫だよ。総士、痛いとこないか?」
胸を見られた挙げ句鷲掴みにされたというのに、気にも留めていないような声音だった。
「そ、そこじゃないだろ。その、い、今のは事故だから。悪気はなかったから! わざとじゃないんだからな!」
「うん、わかってるよ」
「わ……わかってるなら、早く着替えろよ。それでもう、帰ってくれ……」
心臓の鼓動がちっとも治まらない。両手には重たい二つの膨らみの感触がまだはっきりと残っているし、瞼の裏には艶麗な造形が焼き付いている。こんな状態で持ち主と一緒の空間にいられるわけがない。
「手伝わせてごめんな。じゃあ総士、外に……」
「ああ……。……あれ?」
立ち上がろうとして、総士は気付いた。
足に全く力が入らない。
「嘘だろ……」
へたり込んだまま呆然と天井を仰ぐ。まさか、腰を抜かすとは。
ひとしきり唸ってから、総士はしおしおと項垂れた。
「……もうなんでもいいから、早くそのまま着替えて、帰ってくれ……」
「総士がそういうなら、俺はいいけど……」
一騎は戸惑ったように言うが、総士が本気なのを感じ取ったのか、大人しく着替え始めた。
総士の背後で、衣擦れの音が続く。床に何か、固いものが落ちる音がした。ボーンが入っているというバニースーツだろうか。次いで、ぎし、ぎし、とスプリングの軋む音。薄くて柔らかい素材の何かが肌に擦れる音。……一騎の吐息。
今何を脱いでいるんだろうか。何を着けているんだろうか。どんなポーズを、取っているんだろうか。見えない分想像は歯止めが効かない。口の中が乾いていく。さっきから身体の芯で燻る熱が、だんだん大きくなっていくのを感じる。考えるなと念じても止まらない。
「お待たせ。悪かったな」
肩が大げさに跳ね上がった。ひゅっと息を呑んで振り返ると、いつもの変哲のない私服に着替え終わった一騎がそこにいた。トートバッグにバニースーツを詰め込んでいる。ようやく見慣れた彼女に戻ってくれて、なんだかほっとする。
「じゃあ、帰るな。寒いから暖かくしておやすみ」
「こ、子供扱いするな」
「まだ子供だよ」
むっとするが、腰が抜けて立てないままでは反論のしようがない。頬を膨らませている総士に微笑んで、一騎はコートを羽織った。
「ああ、そうだ。メリークリスマス、総士」
「め、メリークリスマス……」
「うん。いい夢、見れるといいな」
そこは夢じゃなくてプレゼントがもらえるといいな、じゃないのか? と首を傾げる総士に手を振って、一騎は帰っていった。
はぁー…と長いため息が漏れる。動悸はまだ治まっていない。腰も抜けたままだ。ずりずりと這いずってベッドによじ登る。美羽が長風呂で助かった。万が一この部屋に突撃されていたら、自分の人生は終わっていたはずだ。
ベッドに腰掛けるや否や、疲れがどっとのしかかってきた。抗えず、そのままばったりとベッドに倒れ伏す。その拍子に布団の隙間から、黒い布切れがひらりと舞い上がった。
(………?)
半分閉じかけた瞼をこじ開けて、それを掴む。
非常に薄い布地だ。布、とはいうものの面積は狭い。ほとんど紐でできた輪っかみたいなものだ。輪っかが二つ組み合わさっているようなもの。伸縮性に富んでいる。なんとなく、まだあたたかい。まるでついさっきまで、誰かが履いていたように。
まさか。
かっと両目を見開いて、総士は手の中のそれを凝視した。
まさかとは思うが、これは、一騎がバニースーツの下に履いていた、ハイレグ仕様のインナーショーツなのでは。
(わ……忘れるか? 脱いで? その下着を?)
網タイツとストッキングを脱いだときに、一緒くたに脱いだのかもしれない。で、何らかの理由でショーツだけがベッドに落ちて、たまたま布団の隙間に入った……。そう考えれば納得はいく。
そうなると、一騎は多分、ショーツだけ失くしたことに気づいていない。
どくどくと血が巡る音がする。総士は上擦る息を吐きながら、下着を握りしめていない方の手をベルトの金具へと伸ばした。
総士の人生における、最悪で最高なクリスマスプレゼントだった。