PROSERPINA

スプリング・デイ・マリッジ

 真壁一騎の作る料理は美味い。
 これは否定しようのない事実だった。十代半ばから飲食店の厨房に立っていたという彼女の腕は確かなもので、それはエレメントとなって飲食を必要としなくなった今でも変わらない。家庭料理の温かみを残したまま、店に出せるだけの上品さと繊細さを上乗せした料理は多くの舌を楽しませている。
 ただし、喫茶〈楽園〉のマスターである春日井甲洋と共に一年のほとんどを島外で過ごすようになった今、その味にありつける機会は滅多に無くなってしまった。
 一年に一度だけ、期間はたった数ヶ月。季節は不定期。羽根を休めに降り立つ渡り鳥めいて彼らが島に帰るたび、僅かな期間だけ供される料理を求めて島民は足繁く〈楽園〉に通う。
 皆城総士もまた、そのうちの一人だった。

 薄青の空に満開の桜が映える陽気の日、総士は美羽と共に〈楽園〉を訪れていた。目当てはもちろん、看板メニューである「一騎カレー」である。
 初めて彼女の作ったカレーを食べた時の衝撃を、総士は一生忘れることはないだろう。今まで食べたどんなカレーとも違う複雑な味わい、スパイスの広がり、何層もの旨味。酸味と甘味と苦味の絶妙な調和。夢中になって食べていたらいつの間にか皿は空になっていて、もうお腹はいっぱいだったのにお代わりが欲しくなった。スプーンを置いた後、毎日食べたっていい、いや、毎日食べさせてくれ……と口をついて出そうになったくらい、美味だったのだ。
 食べられない間は夢に見たことさえある。自分で再現できないかと試行錯誤したこともある。だが一騎カレーの味はどうやっても再現できず、総士は仕方なく、こうして一週間に一度は〈楽園〉の扉をくぐっていた。
「また一騎カレー? 好きだねえ」
 注文を取りに来た春日井甲洋にカレーランチセットを注文すると、美羽は呆れたように頬杖をついた。
「……うるさい。料理に罪はないだろ」
「もー、素直じゃないなあ」
 美羽は肩を竦めて、メニューを指差した。
「ねえ、エイプリルフール限定デザートだって! 白いコーヒーのケーキ、総士も食べない?」
「エイプリルフールはもういい」
「……まだ朝麦茶とすり替えてめんつゆ出したの怒ってるの?」
「あれは反則だろ!」
「古典的って言ってよ」
 今日は四月一日。つまりエイプリルフールである。朝から同居女性二人に他愛のない悪戯を仕掛けられた総士はなんとかやり返そうとしたが、勘のいい真矢と心を読んでくる美羽にはどうにも太刀打ちできない。
 暖かな気温と春の雰囲気のせいか、島の空気は緩みっぱなしだ。〈楽園〉に足を運ぶ間にもそこかしこで小さな嘘や悪戯の姿を見かけた。娯楽が少ない島だからってこんなことで本当に大丈夫なのか、総士は少し心配になってきた。アルヴィスで働いている大人たちは、仕事中なら……きっと……真面目なはずなのだが。
「日替わりパスタランチ、限定デザート付きでお願いします」
「はい、カレーランチセットのサラダ、ブラックコーヒー。日替わりパスタランチの限定デザート、アイスティーだね」
 注文を取りに来た甲洋は人好きのする笑みを浮かべて、一騎のいる厨房へと帰っていった。総士は持参したタブレットに目を走らせるふりをしてその背を追いかける。注文表を厨房の壁に貼り付けて、二言三言、甲洋が一騎に話しかける姿が見えた。しかし一騎は振り向かず、総士を見つめることはない。
(……別に、気になったりは、していない)
 総士は食事をしに来ているだけなのである。真壁一騎に会いに来ているわけではない。たまたま、一騎の作る食事が非常に口に合うから、どうしても食べたくなった時だけ来ているだけなのだ。だから一騎の顔を見れなくても、会話がなくてもなんてことはない。エプロン姿の背中だけしか見れなくたって残念に思うことはないし、特別扱いされず、十把一絡げの他の客と同じように接されていることにムカついているわけでもない。ないったらないのだ。
 何度目かの言い訳をしながらアイスコーヒーを飲みつつ待つこと十分。ようやく目の前にカレーが運ばれてくる。総士は芳しい香りを胸いっぱいに吸い込み、スプーンを握りしめ、ルーと白米を完璧な黄金比で掬い、口に運びかけた――その時だった。
「一騎、結婚して!」
 ドアベルを力いっぱい鳴らし飛び込んできた高い声が、〈楽園〉の中に響いた。
 目の前で、総士と同じようにパスタを口に運びかけていた美羽がぽかんとしていた。それから、二人してゆっくりと首を巡らせて、入り口の方に顔を向けた。
 声の主は、つい一ヶ月前に生まれたばかりのボレアリオス・ミールのコア――三代目来主操だった。
 今回は七歳ほどの容姿で生まれた彼が、小さな手に白詰草の花束を握りしめて意気揚々と仁王立ちしている。その後ろで養母の羽佐間容子が、申し訳無さそうに両手を合わせていた。
 ふくふくとした丸い頬を赤く染めて、元気いっぱいにアピールするコアはなんとも可愛らしい……はずなのだが、いかんせん今の総士にそう感じる余裕はどこにも存在しなかった。
「は?」
 思いの外低い声が出た。いつの間にか取り落していたスプーンがからんと音を立てる。目の前の美羽が「総士、瞳孔開いてるよ……」とどこか恐ろしげに呟いていたが、総士の耳には入らなかった。
 しんと静まり返った〈楽園〉の中で、コンロの火を消す音が響く。エプロンで手を拭きながらようやくホールに出てきた一騎は、白詰草のブーケ、わくわくした表情の操、苦笑する甲洋、目配せをする容子……と、おっとりとした表情のまま、順繰りに視線を巡らせた。最後にもう一度操に目線を戻して、なるほど、と微かに首を傾けて思案する。
 本日はエイプリルフール。おおっぴらに嘘をついても許される日だ。
 当代のボレアリオス・ミールのコアはついに嘘をつけるようになったらしい。以前の操は心が読めるためか、「嘘」という概念自体をうまく理解できていなかった。彼は言葉を使って自分の想いを伝えるのが好きだったから、何故考えていることと反対のことを伝えるのかわからない、と言っていたことを思い出す。嘘は不和をもたらすから嫌だ、とも言っていたような気もする。
 つい先日新しく生まれたばかりのこの操も言葉で対話することを好んでいたはずだが、さて、いったいどういう学習をしたのか。
 元々無邪気で好奇心旺盛な性質だったが、三代目の操はよりその性質が強くなっているような気もする。有り体に言えば、容姿に引っ張られて子供っぽい。前の操がねだった時は断られた結婚ごっこをして遊んで、ついでに一騎と結婚したと嘘をついて、驚く島民の姿を見て喜びたい――という考えなのかもしれない。
 既に〈楽園〉の客は十二分に驚いているようで、総士などは配膳されたばかりのカレーにまだ口を付けてすらいない。おかげで、操は随分とご機嫌だ。
 一騎は深く考えることをやめて、まあいいか、と操の前にしゃがみこんだ。どうせ子供のすることなのだ。以前断ったのは、小さな総士と結婚ごっこをしているときで、総士がやきもちを焼いて泣いて嫌がるものだからできなかったのだ。勤務中だが、ごっこ遊びに付き合うくらいは問題ないだろう。
 差し出された花束から一本白詰草を抜き取る。まだ十年も経っていないはずだが、遠い昔のように思える記憶が蘇り、一騎は微笑んだ。
「いいよ、しようか」
「やったー!」
 操がキャッキャとはね飛んで喜ぶ。その間にものの十数秒で指輪を作り上げた一騎は、優しく操の左手を取り、薬指にそっと嵌めてやった。以前総士とごっこ遊びに興じた時にさんざん作ったので、指はまだ作り方を覚えていたようだ。
「指輪だ! すごーい!」
「仕事の邪魔しちゃだめだぞ。あと、花が萎れるまでだからな」
「はーい」
 片手をぴょんと上げて返事をする操はなんとも愛らしく、途端に店内の空気が緩んだ。女性客などは口々に可愛い、と言ってはくすくす笑いだしている。ずっと入り口に立っていた容子はすすっと一騎に近づいて、小声で頭を下げてきた。
「ごめんなさいね、操が迷惑をかけて……」
「いえ、こんなの迷惑のうちに入らないですよ。気にしないでください、羽佐間先生」
「あっ、違うよ一騎!」
 おや、と一騎は容子と共に首を傾げた。周囲の客に結婚をアピールしていた操が小走りに近寄ってくる。
「結婚したら、結婚相手のお父さんとお母さんのことも、お父さんお母さんって呼ぶんでしょ? だから一騎も『羽佐間先生』じゃなくて、僕のお母さんのこと『お母さん』って呼んでよ」
 二人は操に手を引っ張られながら、顔を見合わせ、どちらからともなく赤面した。
 一騎にとって容子は同級生の母親で、学校の先生で、ファフナーの整備クルーだ。幼少時からお世話になっている。容子にとっても、一騎は上司の娘で、教え子で、散々心配してきたエースパイロットで、何より自分の娘たちが仄かな憧れを寄せていた相手だ。それを。
「お……お義母さん?」
 ふにゃり、と笑うその顔は二十代後半に差し掛かっているとは思えないほどやけに幼くて可愛らしい。思わず、容子は謎の罪悪感から目を背けた。
「な、なんだか司令と紅音さんに悪いわ……」
「そ、そうですかね……」
「まあ、立ってるのもなんだし、とりあえず座ってください。ほら、来主もおいで」
 甲洋が窓際の席を示すが、操は首を横に振った。
「だめ。結婚したら、新婚さんは『イチャイチャ』するんでしょ? 僕一騎とイチャイチャするから」
「……お前、意味分かって言ってる?」
「分かってるよ。ちゃんと観察して勉強したもんね!」
 観察、と甲洋は口の中だけで呟いて眉を寄せた。操は腕組みして自信満々である。どのカップルを観察したのか……と聞きたくなったが、藪をつつく未来しか見えない。奥で花瓶に花束を活けている一騎は全くこちらに注意を払っておらず、この会話は耳に入っていないようだ。
 何かあっても一騎と来主の問題だからまあいいか……と遠い目をして諦め、甲洋は注文を取った。店内でただ一名、不穏な空気を醸し出している人間のことは考えないようにして。
 操は早速一騎の足元に纏わりつきだしている。正直、容子に甘えている時とそう大差はない。
「ねえ一騎、なんか手伝うことある?」
「うーん……じゃあ味見手伝ってくれるか?」
「味見! やる! 僕お母さんのご飯も好きだけど、一騎のご飯も大好き!」
「ありがとな。そうだ、お昼まだならメニューに載ってないのも作るぞ。何が食べたい?」
「じゃあオムライスがいいなあ、割るととろとろのやつ」
「オープンスタイルのやつか、いいぞ」
 足に抱きついたままの操を一切意に介さず、一騎はそのまま厨房に消えていった。さながらコアラだ。
 一連をずっと見守っていた美羽は、アイスティーをずずっと啜り、目の前の同居人を見た。あんなに楽しみにしていた一騎カレーなのに、総士はぼんやりと機械的にスプーンを動かしている。その視線は厨房の奥に固定されており、何を気にしているのかは誰の目から見ても明らかだった。
 背後の厨房からはボウルをかき混ぜる音と共に、操と一騎の無邪気な会話が漏れ聞こえてくる。
「こないだお母さんが、ご飯作る時には隠し味を入れるって言ってたんだ。愛情を入れてるんだって! ねえ、一騎も入れてるの?」
「家で作る時は、そうかな」
「なんで? なんでお店ではやらないの?」
「店では感謝の気持ちを入れてるから」
「感謝? なんで?」
「みんなお金を払って食べてくれてるだろ。一生懸命稼いだお金で俺の料理を食べてくれるから、ありがとうって気持ちを入れるんだ」
「じゃあ、今僕に作ってるのはどっち入れるの?」
「どっちにしようかな。来主はどっちがいい?」
「愛情がいいー。僕旦那様でしょ」
「いいぞ」
「えっ」
 びくりと総士が跳ねた。無意識に出てしまったらしい声に、自分でびっくりしている。美羽はアマトリチャーナのパスタをフォークで巻き取りながら、気づかないでおいてあげることにした。
「ソースは何がいい? デミグラスと、ハヤシと、クリーム。はい、ちょっとずつな。あーん」
(甘いなあ……)
 美羽はしみじみ思った。小さい操に、甲洋と一騎は驚くほど甘い。ものすごく可愛がっている。一騎はごっこ遊びではなくても操にせがまれたら普通に同じことをしそうだし、甲洋はそんな二人を止めないだろう。前の操がいたら憤慨するかもしれない。僕にはそんなふうにしたことなかったじゃん、と言ってぷりぷり怒るのが目に見えるようだ。
「んー……ハヤシ!」
「はい、ハヤシな」
「あっ、一騎待って」
 ん? と一騎の訝しげな声の後に、ちゅっというリップ音が聞こえて、店内の目という目が厨房を向いた。
 カウンターの向こう、ゆっくりと立ち上がった一騎が片頬を押さえ、困ったような顔をしている。操の姿は隠れて見えない。
「お前なあ……」
「えー、だってこないだ彗と里奈がやってたよ。いっぱい」
「あいつら結婚してもう二年は経ってるから新婚じゃないだろ」
「でもイチャイチャってこういうことなんでしょ?」
「まあ……そうかな」
「じゃあいいじゃん」
「そうだな」
 ――丸め込まれやすすぎないか?
 その場に居合わせた全員が同時に心の中だけで突っ込んだが、こういう時に限って一騎は読心していないようだ。
 美羽は恐る恐る視線を戻し、眼前の総士を伺った。彼の目はやたら虚ろで、心の壁は分厚く聳え立っているが――心が読めなくたって、その視線は何よりも雄弁だった。
(素直じゃないなあ……)
 総士はまだ海神島で一騎と共に過ごしていた記憶を取り戻していない。だが無意識に感じるものや、影響されるものはあるのだろう。何かに付けて〈楽園〉に訪れるのも、きっと一騎に会いたいからだと美羽は考えていた。
 今日の操みたいにあなたも一騎お姉ちゃんにくっついて甘えていたんだよ、と教えたら、総士はどう反応するだろう。
 絶対言えないから、思い出してもらうしかないのだけれど。
 やがて、バターの香りと共に卵の焼ける音が響く。程なくしてホールに出てきた一騎の手には、丸く盛り付けられた橙色のチキンライスの上に、レモンのように鮮やかな黄色のオムレツを乗せた皿があった。
 甲洋が操を抱き上げて椅子に座らせる。その前で、丸いオムレツに銀色のナイフが入れられた。
 すーっと引かれた一文字から、黄金色の半熟の卵がとろとろと零れ落ちる。一騎は器用にナイフを操って、オムレツを二つにぱっくりと割ると、チキンライスの上に卵を布団のように被せてすっかり隠してしまった。
「すごーい! テレビで見たやつ!」
 操が手を叩いて喜ぶ。一騎は一旦厨房に取って返し、小鍋を持ってくると、温めていたハヤシソースをまたその上からかけた。トマトの酸味と甘味の匂いが立ち込める。操は右手に子ども用スプーンを握りしめて、目を輝かせていた。
「はい、どうぞ。召し上がれ」
「いただきまーす!」
 オムライスにスプーンを差し込んで、操が一口食べる。彼は大きく目を見開いてから頬を押さえて、容子ににっこりと笑いかけた。
「すっごくおいしい~」
「よかったわね、操。でもちゃんと飲み込んでから喋りましょうね」
「うん!」
 元気よく返事をして操が続きを食べ始める。その頬に、早速チキンライスの粒が飛んでいた。一騎は微笑みながら指を伸ばすと、摘んで口の中に放り込んだ。
「あんまり急ぐと喉に詰まるからゆっくり食べろよ」
「んー」
 にこにこと笑う操の頭をひとつ撫でて、一騎は厨房に戻っていく。総士はその後ろ姿を、自分でも理由の分からないまま、ずっとじっとりと眺めていた。

 結局、操と一騎の結婚ごっこは昼営業が終わるまで続いた。「いらっしゃいませ! 僕一騎と結婚しました!」と来客を出迎える小さなコアに最初は皆目を白黒させていたが、すぐにエイプリルフールの催しだと分かって笑っていた。奥さんの仕事の手伝いをしてます、と言って小さな体でくるくるとホールを歩き回る操の姿は微笑ましく、随分客から褒められていたように思う。カトラリーを交換したり机を拭いたりと、できる限りの手伝いを自ら買って出たので、営業終わりに甲洋からケーキをご褒美に出されたくらいだ。
 ただ、随分とはしゃぎすぎていたらしい。ケーキを食べたら糸が切れるように寝てしまったので、指輪の花が萎れる前に結婚ごっこはおしまいとなった。
 それまで、全く腰を上げようとしない総士に付き合っていたら、美羽は昼いっぱい〈楽園〉に居座る形になってしまった。
「もー、美羽帰ろうって言ったのに、総士のばか」
 肘で突いた上に小声で詰っても、総士はつんとして言うことを聞こうとしない。外に「準備中」の札がかかるまで居座っておいてこの態度だ。申し訳なく思いながら会計を済ませていると、操をおぶった容子を見送りにいった一騎が戻ってくる。途端に総士がイライラしだしたのを感じ取って、美羽は額に手を当てながら重いため息をついた。
「お前、エイプリルフールだからって、そんな簡単に結婚するのか」
 戻るなり突然不機嫌な感情をぶつけられて、一騎は戸惑ったようだった。総士の機嫌が悪いのはわかるが、それがどうして自分に向けられたのかがわからない、という顔をしていた。
 総士自身も、どうしてこんなに二人のごっこ遊びが癇に障るのか全くわからないままだ。夫婦、というよりは親子のようにも見えた風景。甘えて、甘やかして、頬にキスまで許して。メニューにない料理まで作って。なんで来主操を可愛がる姿にこんなに嫉妬してしまうのか。甘やかす対象が違うんじゃないかと、大声で反論したくなる気分になるのか。
「子供のごっこ遊びだろ。それに、相手は来主だし」
 一騎がエプロンの裾を弄りながら、すっかり自分の身長を追い越した総士を見上げる。その答えに何故だか無性にかちんときて、総士は感情の赴くまま、衝動的に口走ってしまった。
「ふーん。じゃあ、ごっこなら僕とでもできるんだな」
 できるよと、いつものごとく柔らかに返答される気がして、総士はそっぽを向いてから身構えた。一騎の常套句だ。竜宮島が浮上してからというもの、この人は総士の言うことにNOと言ったためしがない。いつだって、「お前の言うとおりにするよ」と甘く微笑んで言うことを聞いてくれる。だから「できる」という答えに振り回されないよう、衝撃に備えたのに――

「できないよ」

 一瞬何を言われたのかわからなくて、総士は固まった。
 振り向けば、彼女はこちらを安心させるように莞爾として笑っていた。なんだ、空耳だったのか、と胸を撫で下ろしていると、彼女は目を細め、ふわりと笑った。初めて見る笑い方だった。
 勝手に心臓が高鳴って走り出す。総士の人生で見た中で、一番可愛いと思える笑顔だった。

「絶対にしない。お前とだけは、島が沈んだって、世界に二人きりになったって、絶対にしないよ。総士」

 ――その後の記憶が、定かではない。
 気づいたらいつの間にか帰宅していた。夕食を食べたかどうかも覚えていない。美羽や真矢に話しかけられたような気もするが、ずっと上の空のままで返事をした。ぼうっとしたまま湯を使いベッドに入ったが、眠気は訪れない。爛々と天井を睨みつけて、ひたすら考えていた。
『絶対にしない』
 耳元であの優しい声がリフレインする。
『島が沈んだって』
 目を閉じると、網膜に焼き付いた笑顔が浮かび上がる。
『絶対にしないよ。総士』
 歳上なのに幼さの残った可愛らしい笑みで、甘い声で、総士の名を呼んで。
 それなのに、拒否されたのだ。
 真壁一騎がどれほど島を思って、島のために尽力しているのかを総士は知っている。その彼女が、島が沈んだってしないと言ったのだ。総士とだけは、絶対にしないと。
(つまり……僕以外とは……するんだ……)
 二年前に零央と美三香、彗と里奈が同時に上げた結婚式の記憶が蘇る。総士が初めて参加した、思い出深い結婚式だ。花嫁の二人は白無垢を着て、綿帽子を被って、幸福そうに微笑んでいた。その後に開かれた披露宴では、白のウェディングドレス、ピンクや黄色のカラードレスへと何着もお色直ししていた。二人共とても美しかった。
 一騎はきっと白が似合う。深い黒髪に、薄い肌の色だから。白無垢とウェディングドレス、どっちだって似合うだろう。あの人は馬鹿な人だけど、強くて、優しくて、綺麗だから、彼女を慕う人間はきっとたくさんいる。だから、そのうち、結婚してしまう。誰かのものになってしまう。
(僕だけ……だめなんだ……)
 想像の中の一騎が、誰か知らない男にヴェールを上げられて、とびきりの可愛らしい笑顔を見せる。白詰草のブーケを手にして、顔を傾けて、微笑んだままキスをする。
 だがその相手は総士ではない。何故なら、世界がひっくり返ったとしても、総士のものにはならないと言い切られてしまったからだ。
 がんと頭を殴られたような衝撃が襲い、総士は飛び起きた。いてもたってもいられず部屋を飛び出す。着替えもしないまま玄関のスニーカーを履いて、そのまま墨を流したような春の闇の中に走り出した。
「総士くん!? いま夜中だよ!?」
 遠く背後から真矢の声が追いかけてくるが、構う余裕はなかった。全速力で島を駆け抜ける。坂道でも足を緩めることなく回転させて、息を切らしながら辿り着いたのは、〈器屋〉の看板のかかる人家だった。
 人気のない階段に総士の激しい呼吸が響く。それを打ち消すくらいに強く、チャイムを押す。ピンポーン、とどこか間抜けな音がした。静かな夜の中、今か今かと耳を澄ましていると、扉の向こうから足音が近づいてくる。誰何することもなく不用心に内鍵が開けられ、顔を出してきたのはやはり一騎だった。
「総士? こんな時間にどうしたんだ?」
「ひ……昼間の! 話だけど!」
 きょとんとした表情の一騎はパジャマ姿だった。アルヴィスの制服でも、シナジェティックスーツでも、いつものゆったりとした私服でもない。彼女のプライベートに踏み込んだような気分になって一瞬狼狽えたが、総士は頭を振って気持ちを切り替えた。夜だろうが自宅に押しかけだろうが関係ない。とにかく、今すぐ一騎に言っておかねば気がすまないのだ。
「いいか、僕は負けないぞ! 絶対僕との結婚も首を縦に振ってもらう! 覚悟しておけ真壁一…騎……」
 総士は一騎の鼻先に指を突きつけ、宣戦布告を叩きつけた――つもりだったのだが。
 一騎の後ろから顔を出した史彦が、驚きのあまり口を開けて総士を見ているのに気づいてしまい、言葉は尻すぼみに消えてしまった。当たり前な話だ。ここは司令の家でもあるのだ。夜中に押しかけたら、司令だって何事かと出てくるに決まっているじゃないか。しかも僕は――何と言った?
 ショックで冷静な思考が舞い戻ってくる。同時に焦りで高速回転し始め、総士はあわあわと史彦に弁解をするはめになった。
「あっ、ち…違うんですこれは……言葉の綾で……ほんとに結婚したいわけじゃなくて……」
「いや…私は……二人の意思を尊重しよう。しかし一騎、いつからそんなことに」
 男二人は完全に混乱しきっている。
 静かにその様を見守っていた一騎は、ゆっくりと口を開いた。
「もうエイプリルフールは終わったよ、総士」
 総士は今度こそ、ぴしりと固まって思考を停止させた。

 真壁一騎が嘘をついた可能性など、総士はこれっぽっちも考えていなかった。想像の埒外だったのだ。
 ただ、もう真偽を確かめることはできない。何故なら、万が一にも「嘘じゃない」と言われてしまったら、もうどうにも立ち直れないのが分かっていたからだ。
 総士が決心できたのは、来年からエイプリルフールの日に真壁一騎に会うのをやめることだけだった。