PROSERPINA

眠れる竜

 夏至前の竜宮島はすっかり日暮れて、今や闇の中にあった。一騎の働く喫茶楽園も閉店の札を出し、店内からは必要最低限の灯りが曇りガラス越しにうっすらと漏れている。
 総士は床を拭いていたモップをバケツに突っ込んで、うんと背筋を伸ばした。その背後、カウンターの向こうから柔らかい労いの声がかかる。
「お疲れさま。今日は助かったよ」
「どうということはない」
 厨房にいる一騎は微笑んで、「こっちももうすぐ終わる」と告げて寄越した。それに頷いて、総士は汚れた水の入ったバケツの取っ手を掴み店の奥にある流し場へと向かう。バケツの中身を空けていると、厨房からは調理器具を片づける音が聞こえてきた。明日の仕込みが終わったのだろう。ちらりと店内の壁に掛かった時計に目をやれば、もう九時を過ぎている。明日も休みのシフトを入れていてよかったな、と総士は息をついた。
 総士は楽園の店員ではない。では何故営業終了後の楽園で清掃作業を手伝っていたかというと、臨時バイトである。運悪く、本日の午後から溝口も真矢も暉もどうしても楽園のシフトに入ることができなかったため、ちょうどその日が休日だった総士が手伝いを申し出たのだった。店長である溝口からはバイト代が出る約束も取り付けてある。普段から準備中に入り浸ったり、自主的に手伝いを行うこともある総士だが、半日ずっと働くのは未経験だった。なかなかいい経験になった、と胸中で呟いて、総士は用具入れへ丁寧に掃除道具を戻した。
 店内へ戻ると、エプロンを外した一騎がガスの元栓を閉めていた。厨房の清掃も手早く終えたのだろう、ステンレスのシンクは水垢もなく銀色に光っている。いくつか周囲のチェックをする素振りを見せてから一人頷くと、一騎は髪ゴムを外しながら総士に笑いかけた。
「お待たせ。帰ろうか」
「ああ」
 照明を落とし、連れ立って外に出る。ドアを開ければ嗅ぎ慣れた潮の匂いと熱気が二人を出迎えた。これからまだまだ暑くなる――毎年のことだ。だがほんの二年前までは、その当たり前のことすら享受できるかどうかわからなかったことを思うと、総士はこの暑さすらも不思議と愛おしく感じるのだった。
(当たり前か――)
 不意に胸がしんと痛む。総士は微かに眉根を寄せ、鍵をかける一騎の横顔を盗み見た。
 その当たり前のことすらも、彼は経験できなくなるのだ。
 自然と握りしめた拳に力が入る。総士は物憂げな想いを振り払うよう、努めて優しく声をかけた。
「送っていこう」
 え、とポケットに鍵をしまった一騎が戸惑う。
「いいよ――女の子じゃないんだし」
「剣司に聞いたぞ。先週、帰り道で気分が悪くなったそうだな」
 一騎が渋いものでも飲み込んだような顔をして押し黙った。クロッシングしていなくても分かる――剣司に口止めをしておいたのに総士にバレていたので焦っているのだ。
 むっつりと黙り込んだ一騎の背をぽんと叩き、総士は先に歩き出した。
「別に怒っているわけじゃない。早く来い、一騎」
「うん……」
 こう言えば一騎は逆らわない。大人しく自分の後ろを付いてくる。総士は振り返りもせず楽園前の細い水路を越え、海沿いの道路に出た。なるべく歩調はゆっくりにして。追いついた一騎が総士の隣に並び、少し顎を引いて上目遣いに総士を覗き込んだ。
「あのさ」
「なんだ」
「手、繋いでいいか」
 つかの間、総士は言葉を失って周囲を見回した。誰もいない――一騎以外は。娯楽の少ないこの島では、日が暮れてしまえば用がない限り家の外には出てこない。
 総士がまごついている僅か数秒の間に、一騎は総士の右手を取った。指を交差させる、所謂貝殻つなぎだ。彼は幾分か早足になり、ずんずんと進んでいく。
「誰かに見られたらどうするんだ」
「見られなければいいんだろ」
 そういう問題ではないと反論しようとした時だった。水銀灯の白い光の下を通過した一騎の耳が赤いことに気づいて、総士は反射的に口を噤んだ。その二人黙ったまま、しばらく歩く。どこかの窓を開け放した家から微かに響いてくるテレビの音が耳に障った。――こんな風に手を繋いで歩くのは、初めてのことだった。
 合わせた手のひらからじんわりと熱が伝わる。脈打つ拍動も。一騎の命の証だ――彼が今、ここにいるということの。
 その事実を噛みしめていると、いつの間にか速度を緩めていた一騎が不意に総士の目を見据えた。
「総士、帰ってきてくれてありがとう」
「……藪から棒になんだ」
 唐突な感謝に戸惑うばかりの総士に、一騎は完爾として笑んで、続けた。
「俺、目が見えなかった時、お前が帰ってくる場所を守りさえすればそれでいいと思ってた。俺がいなくなっても、この島があれば」
「……それは、」
「でも、俺はいなくならなかった。お前とまた逢えた。お前とこうやって話して、触れ合って、過ごすことができた。二年前は考えもしなかったことばかりで、嬉しいよ」
 一騎は繋いだ指に少し力を込めて、晴れ渡った夜空を見上げた。
「最近よく考えるんだ。俺やお前、島のみんながここにこうやっていられるってことは、奇跡みたいなことだって。きっとほんの少しの選択で、誰かがここにいなかったかもしれない」
 例えば、敵であるフェストゥムが地球に来襲しなければ。日本が核によって消滅しなければ。生き残った日本人たちがアルヴィスを創らなければ。遺伝子操作を用いて子供達が産まれなければ。子供達がラジオを通じて敵に応答しなければ。来主操が来訪していなければ。
 ――あの日、総士が一騎を同化しようとし、一騎が拒まなければ。
 どれ一つとして欠けても、自分達がここにいることはなかっただろう。
「お前に逢えて、本当によかった。お前と一緒にここにいることが、嬉しいよ」
 通い慣れた階段を一歩一歩踏みしめ上る。一騎の声はどこまでも優しく、ふわふわと漂った。
 彼の言葉に嘘はない。今ここにいる奇跡。一騎は本気でそう考え、そう感じているのだろう。しかしその綿菓子のような柔らかな声音に、総士は何故だか不安を覚えた。
 階段を上がった先、器屋の前で二人は立ち止まった。繋いだままの手に、互いに力を込めて。一騎が目を細めてまた笑った。写真の中の母親そっくりの顔で。
「俺、今しあわせだよ」
 嗚呼、と総士は声に出さず嘆いた。
 まるで遺言のようだ。
 限られた人間にのみ一騎の余命は知らされている。総士もその内の一人だ。何もしなければ、後三年。それが彼の残り時間だ。治療法の研究を進めてはいるが――遠くない未来、きっと彼はいなくなるだろう。すり減る命を抱えて、この幸福のうちから。
 もしくは、もっと早くいなくなってしまうかもしれない。
 何故ならば、彼は戦士だからだ。フェストゥムを倒す武器――そう作り上げたのは島の大人達であり、総士だ。今続いている平和が破られ戦火がこの島を襲う時、彼は迷わずに戦おうとするだろう。それが一騎という人間なのだ。そういう人間に、一騎を成長させてしまったのだ。
 心臓が氷に触れたように鋭く痛む。総士は思わず一騎の手を解いて、きつくその身体を抱きしめた。自分があれほど気にしていた人目などすっかり頭から消えていた。総士、と一騎に名前を呼ばれた。「どうかしたのか、苦しいぞ」と甘やかに背を抱かれ、その体温に泣きたくなった。
 そう遠くない未来、きっと彼は再び(ファフナー)になるだろう。
 それが一騎の望みなら止める術はない。
 ただできれば――やがて来たる日々の中、隣に居続ける人間は、誰よりも自分でありたかった。