夕暮れの

 遠く出雲から帰京し数日経った日のことだった。

「ねえ、もっくんはどうしちゃったの?」

 彰子にそう尋ねられ、昌浩はちょっと困ったように笑んでみせた。

「……もうもっくんじゃないんだ」

 その意味がわからず彰子が眉根を寄せる。不可解な言葉を聞いた、という困惑が端正な表情を彩った。桜色のふっくらとした唇を噛み締めてから、もう一度、彼女は問いかけた。

 ねえ昌浩、もっくんはどうしちゃったの?

 ――もちろん、彰子が尋ねたいのはそれだけではなかった。本当はいくつもの質問を昌浩へ、もしくはこの場にいない白い物の怪へとぶつけたかった。だがそれはどうしてもできなかった。このたったひとつの問いかけをするだけで精一杯だった。
 弥生の半ばに背中合わせで逢った夢殿を思い出す。あの時昌浩の背は丸まっていたが、同時に強張っていた。声は罅割れていた。彼がとても重たい何かに潰されそうになっていたのを確かに彰子は感じ取っていた。不安なまま日々を過ごし、ようやく皐月になって再会できた昌浩は、――酷く痛々しげな表情を端々に乗せるようになっていた。
 屋敷の上がり口でおかえりなさいと告げた瞬間、彼がほっとして息を吐いたのを覚えている。ただいまと返して彼は笑ったが、雰囲気は変わっていなかった。彰子は戸惑って、いつも彼の側についていた物の怪を探した。しかし彼の相棒はどこにも見当たらなかった。
 視線を戻すと、昌浩は彰子の不安と疑問に気づいていたのだろう、疲れたように目を伏せていた。けれど答えを返すことはしなかった。ただ「家に上がろうか」と切り出しただけだった。彰子が「何かあったの」と詰問をすると口篭って、少ししたら話すと約束をした。
 そうして数日が過ぎた今朝、昌浩は父と祖父に翌日からの参内を告げた。旅の疲れはもう癒えたと添えて。
 だから彰子は意を決し尋ねたのだ。
 物の怪はきちんと安倍の屋敷に帰ってきていた。だが昌浩に寄り添うことはせず、主である晴明の傍らにいつも控えているようになっていた。その視線は氷のように鋭く、冷たく、刃のように彰子を突き刺した。彰子が声をかけても身構え、まるで初めて会う者のような眼差しを向けた。会話を重ねるうちに彰子の存在を思い出したようだが、それもところどころうろ覚えのようである。

 挙句、昌浩を知らないという。

 そんなのはおかしい。彰子が最初に昌浩と出会ったとき、物の怪はその場にいた。それ以降もずっと昌浩のすぐ側で彼の面倒を見、彼と話をし、彼を守っていた。物の怪が知らない訳がないのだ。あれだけ昌浩を大切にして、最も近くにいたというのに。
 だのに物の怪は安倍昌浩という人間にまるで覚えが無いという。
 物の怪に何かの異変が起こったことは確実だ。そしてそれが昌浩の変調の原因であることも自明の理であった。
 彰子に請われるまま、昌浩は長い長い話をしてくれた。三ヶ月前に起きた出雲への旅の原因を。また、出雲で起きた事件を。
 昌浩と物の怪の身に一体何が起こっていたのかを。

「……だからね、もっくんはもう、俺のこと覚えてない」

 昌浩の語りの末尾をそっと染めた笑みに、彰子は再び眉を寄せた。
 彼は帰ってきてからよくこんな風に微笑んでいる。――あまり好きな笑い方ではなかった。昌浩はもっと明るく笑う人の筈だった。こんな風に諦念で微笑したりはしなかった。

「もっくんのこと、もうもっくんって呼んじゃ駄目だよ。『騰蛇』って呼ぶんだ」
「でも……」
「でないときっと、返事してくれないからさ」

 それが昌浩に残された、物の怪への最後のよすがなのだろう。
 昌浩の云わんとしていることを読み取り、彰子は両手を握りしめた。
 救いの代償に明け渡したものはあまりにも重い。けれどその重さに値する救いを、昌浩は自らの手で行ったのだ。
 命を対価に、命を救うという奇蹟を。
 また、物の怪の両手と記憶に刻まれる消えない罪を自覚させないようにと。

「痛いことは、……覚えてないほうがいいだろうしさ」

 物の怪の記憶を消したのは、昌浩自身だ。

「……昌浩」
「ん?」
「約束、……破る気だったのね」
「……ごめん」

 一年前に指を絡めた蛍の約束は、まだ果たされていない。
 忘れている訳ではなかった。昌浩は忘れないまま置き去りにしかけたのだ。全て承知の上で反故にしようとした。
 昌浩は衣の上から、首に下げている匂い袋をきつく握った。
 彰子には謝っても謝り切れない仕打ちをしたことは自覚していた。ただ――それでも、どうしても紅蓮を失うことはできなかった。あの時、あの真っ赤な夕暮れの日、昌浩は彰子より紅蓮を選んでいた。それは覆せない事実だった。
 永遠に口にすることの叶わない名を、もうずっと長い間、昌浩は心の中で呼び続けている。
 祖父の付けたあのとても美しい名前を呼べる日が、いつか来るのだろうか。彼が……騰蛇が、それを許してくれる日は来るのだろうか。
 ――昌浩の名前を彼が永遠に思い出すことはないというのに。
 昌浩はのろのろと顔を上げ、開け放した妻戸の向こうの庭を見やった。暮れかけた太陽が空を燃え立つような見事な朱色に染め上げている。瞬きもしないで見つめていると、じわりと視界が揺れた。

 自分が望んだことだ。
 自分が選んだことだ。
 それなのに悲しいなんて、馬鹿げている。

 夕暮れの色が瞳に染みてたまらないのは、目を見開いているせいだ。

 静かな音を立てて狩衣が透明な液体を吸い込んでいく。それに気づかないまま、昌浩は自分自身に言い聞かせ続けていた。