文台に向かっていた昌浩の身体が揺れたような気がして、側にあった円座の上に丸まっていた物の怪は、ひょいと耳を揺らして視線を向けた。見れば、星見の勉強をしていたはずの昌浩は、こっくりこっくりと緩やかに船を漕いでいる。
「……おいこら、昌浩。まーさひーろやーい」
物の怪はジト目で呼びかけた。と、文台についていた昌浩の肘がずるりと滑る。がくりと身体が揺れ、その衝撃に昌浩はびくんと背を反らした。
「……あれ?」
半分眠ったままの声で、ぼんやりと視線を落とす。手元に置いてある星図表。机に山と積まれている書物。これまた山と積まれている巻物。一見して何も変わったようなところはない。
いや、燈台の油が僅かに少なくなっていた。
「……記憶が、飛んだ」
「居眠りをしたというんだそれは」
「うー……」
ごしごしと目を擦る。物の怪は身を起こすと、円座にきちんと座り直した。このところ昌浩は夜警続きで、就寝するのは子の刻も回った頃だった。つい昨夜、異変の発端となっていた妖を退治たばかりで、やはり疲れているのかもしれない。いつもより早く眠そうにしているのがその証拠だ。少々早いが寝かしつけようか、と考え、物の怪は説教態勢に移行した。
「全く、星図を前に居眠りか。そんなに星見が嫌いか孫。そんなんじゃ一人前とは程遠いなあ、やんなるぜ。早く寝ちまえよ、オコサマ」
「…………もっくん」
「ああ?」
昌浩はのろのろと物の怪を眺めてから、ぼそりと呟いた。
「……寝る」
「……は? って、うわ、おい昌浩っ」
ぷつりと糸が切れたように、昌浩の瞼が力なく閉じる。力の抜けた身体が傾いで、背中から板張りの床へと仰向けに倒れこむ。
今にも頭がぶつかるというところで、物の怪から元の姿へと変化した紅蓮がぎりぎりでその細い身体を抱えこんだ。
「まったく……」
ひやりとさせるな。
紅蓮は深いため息をついた。腕の中に視線を落とせば、昌浩は暢気そうにくうくうと寝息をたてている。人の苦労も知らないで、とぼやいてから、怪我はないのだからまあいいかと思い直した。
「昌浩、昌浩、こら」
低音のよく通る声で耳元で囁いてみる。よく悪戯でそうしてやると、昌浩は面白いほど顔を赤くして嫌がるのだ。恥ずかしがる表情が可愛くて紅蓮はいつでもしてやりたいのだが、さすがに本格的に嫌われると困る。よってあまりすることがないのだが、せめて服を着替えさせたい紅蓮は昌浩を起こそうとしたのだった。
「昌浩、起きろ。服を脱げ」
「んー……」
唇で耳朶に触れながら言葉を吹き込むと、赤子がむずがるように昌浩は身じろぎした。紅蓮の胸にすりすりと頬を押しつけると、安心したように唇の端が緩む。ふうと洩れた吐息と共に全身から力が抜けて、ずっしりと昌浩の全体重が紅蓮に圧しかかった。
……どうやら、起こすのは無理なようだ。
無理やり起こすのも忍びなく、紅蓮は仕方なく手を伸ばすと狩衣の受緒から蜻蛉を外した。なるべく頭を揺らさないように気をつけながら腰帯も解く。狩衣と狩袴を脱がし終え、昌浩の髪を結ってある紐を解くと、ばさりと髪が流れた。ここまでしているのにちっとも目が覚めないのはむしろ何かの才能ではないかと、ふと思う。そういえば昌浩は昔から寝かしつけるのが楽な子どもだった。こんなに大きくなったというのにこういうところは変わらないのだ。できれば、この子のいい部分がいつまでも残ってほしいものだった。
紅蓮はそっと昌浩を抱き上げると、茵へと運んだ。下ろす前にふと微笑む。妖怪や霊などに立ち向かう時は精悍な顔をするのに、こうやっているとまだまだ子どもで、あどけない。
紅蓮が片手でそろりと頭を撫でる。とその瞬間、ぱちりと昌浩の瞼が開いて、くるんと大きな瞳が紅蓮を見上げた。
「……あ、起こしたか?」
ばつの悪い顔をした紅蓮を、昌浩はぼんやりと見つめる。そっと昌浩を茵に下ろすと、紅蓮はその頬を優しく撫でた。
「ほら、もう寝ろ。服は着替えさせてやったから」
「……ぐれん」
舌足らずに呼んで、昌浩は瞬きした。自分を茵に下ろした逞しい腕が離れていく。それに眉をひそめて、彼は眠気の中で両腕を伸ばした。
するりと己の首に絡みついた腕に、紅蓮は戸惑った。驚いて昌浩を見やると――ふわりと、視界が塞がれる。
それとほぼ同時に唇に柔らかいものが触れ、刹那の間でまた離れていった。
「おやすみ……」
くたりと昌浩の腕が茵に滑り落ちる。またくうくうと幸せそうな寝息を立て始めた昌浩を見下ろしながら、紅蓮は滅多にないことに、顔を真っ赤にさせていた。
「……っ、おまっ……」
彼はしばらく赤面しながら肩を震わせると、やがてぎくしゃくと動き始めた。枕を昌浩の頭の下に敷き、掛布代わりの大袿をかぶせ、と実に甲斐甲斐しい。この場に他の神将がいたら目を丸くしてその様子を見ていたことだろう。それに頬を染めている騰蛇など滅多にお目にかかれるものではない。勾陳だったら笑いを噛み殺しながら、後の話の種にするに違いなかった。
燈台の灯りを消すと、紅蓮は瞬きひとつで物の怪姿へと転じた。いつもだったら袿の端で丸くなるところを、そのままごそごそと中に潜っていく。昌浩の胸の辺りまで来たところで、物の怪はその腕の隙間に潜りこんだ。寝心地の良さそうな体勢を探しながら、ぶつぶつと呟く。
「……てめ、明日の朝覚えてろよな……」
こちらがされたより数倍恥ずかしい思いをさせてやる。
まだ顔の熱い物の怪は、そう締めると瞼を閉じた。