降りゆく時雨に

 水の中から浮上するような感覚だった。質量のある何かで満たされていた場所から、妙にすうすうと肌に当たる空気の中へと薄い膜を急速に突き抜けるような。そんな感覚に、思い切り息を吸いこみ騰蛇は覚醒した。
 途端、眩しい光が目を射った。大きな瞳を細めながら、騰蛇は今まで伏せっていた屋根の上で伸びをした。この化生の変化にも、ここ数年のうちにすっかり慣れた。今の伸びなどあまりに動物的に過ぎる。
 ……他の神将達がこの様を見たらどう思うだろうか。最強の凶将にて煉獄の主、十二神将騰蛇がその身をやつしている物の怪の変化を見たならば。
 だが。
 騰蛇は片耳を雲の出てきた夕暮れの空にそよがせると、すぐにその考えを打ち消した。彼の常の姿勢は他者になるべく関わらないこと。その不文律を、彼は頑なに守っている。故に他者からどう思われようとも関係ない。例え、それが同胞からの想いだとしても。
 茅葺きの屋根の上で座り直す。朱に染まった世界はどこまでも見渡せることができた。何気なく西側――内裏の方角を見やる。と、この安倍邸に向かい大路を進んでくる直衣姿の人間が見えた。その傍に不可視の存在を認め、騰蛇は軽く目を眇める。……あれは六合だ。
 その人間は安倍邸の門をくぐると、ふっと視線を上げた。その瞳はまっすぐに物の怪姿の騰蛇を捉えている。相も変わらず目ざとい奴だと騰蛇が思うか思わないかのところで、その人間は微笑んで騰蛇に手を振った。

「ただいま、騰蛇」

 騰蛇は返答を返さない。いつものことだ。あの人間も知っている筈だった。

「もうすぐ雨が降るから屋根の下に入ってたほうがいいよ。風邪はひかないと思うけど、無理に濡れる必要もないからね」

 穏やかに諭す声音に他意は感じられない。
 騰蛇は交じりあった視線の糸をぷつりと切ると、彼らから離れた場所にひらりと降り立った。そのまま振り返ることもなく、遣り水の方へ歩みを進める。
 夢を思い出す。騰蛇は、晴明、と夢の中で主を呼んだ。応えはなく、騰蛇はそれに苛立った。――思い返してみれば、それは当然のことだった。

 安倍晴明はもうこの世に存在していない。新しく十二神将を従えているのは、今年で二十歳を迎えた晴明の末孫だ。
 騰蛇の知らない間に生まれ、騰蛇がどうしてもその顔と名前を覚えることができない、亡き主の忘れ形見だった。

 静かな雨が屋根を叩き始め、雨垂れが軒先からぱたぱたと落ちる。
 騰蛇はその音を聞きながら、簀子の上で丸くなっていた。時刻は夜半をとうに過ぎている。雨は周囲の物音を消してしまっており、騰蛇は自分の呼吸音だけを静かに聞いていた。
 そんな中、微かに軋む音を拾って騰蛇は長い耳を動かした。しばらくして騰蛇のいる簀子に誰かが近づいてくる。それは馴染んだ気配だったので、騰蛇は猫のように丸くなったまま気配の主を待った。
 ――やがて足音を殺し現れたのは、晴明の孫だった。
 きしきしと板を鳴らし、孫は騰蛇のそばまでやってくると、すとんと腰を下ろした。ゆっくりと起き上がった騰蛇がちらりと確認してみれば、彼は単衣に袿を一枚羽織っただけというなんとも寒々しい格好である。髪は括っておらず、成人男子がそんななりでいいのかと、晴明が若い時分に皆から受けていた小言をこの孫にも言いたくなった。

「屋根の下にいたほうがいいとは言ったけど、こんなとこじゃ冷えるよ」 「………」

 ぷいとそっぽを向く。彼は声を出さず笑って、騰蛇の背をそっと撫でた。
 たまに、こんな夜があった。闇の中騰蛇がひとつところにじっとしていると、不意に現れた孫が隣に座り時を過ごす。騰蛇が自ら話しかけることは稀だったので、彼はいつも一方的に口を開いていた。答えが無くとも気にする素振りも見せなかった。
 どうしてこんなことをするのかと疑問には思っているが、一度口に出してしまえばこの均衡が崩れてしまうような気がして、騰蛇は孫と口を利いていない。
 彼は騰蛇を恐れていない。笑いかけも話しかけもするし、騰蛇に軽々と触れてのける。
 晴明以外に初めて出会った、騰蛇を恐れない人間だ。
 なのに騰蛇はこの孫の名と顔をいまだに記憶に留めることができない。成長してくるに従って晴明の妻だった若菜によく似てくるようになったと感じ、彼女の顔は思い出せるのに、「よく似た」と認識している当の孫の顔はどうしても覚えることができない。その違和感をやっと自覚できるようになったのはごく最近のことだ。
 十二神将の中で彼の式神にくだっていないのは、ついに騰蛇ひとりだけになってしまった。あの青龍でさえ彼の下にくだったというのに、騰蛇だけは式にくだることを頑なに拒否した。――名も顔も記憶に刻まれない人間を主と仰ぐなど、騰蛇にはできなかったのだ。

 式になってくれるか、と孫が皆に頼んだ日のことを、騰蛇は鮮やかに思い出せる。
 承知する同胞たちを横目にしながら、冷たい目で騰蛇は言い放った。

『式にはならない』

 それすら正面から受け止め、孫は笑ってみせた。

『いいよ』

 騰蛇の言葉を受け入れ――その後でも、彼の騰蛇に対する態度は変わらなかった。
 たまにこうやって言葉を交わす機会も変わらない。そして主を持たない騰蛇が人界にずっと留まっている理由も訊かれないままだった。
 寒暖の差ですぐに人は体調を崩すのだから、秋雨の冷気は彼にとって毒かもしれない。
 騰蛇は言い淀んだが、珍しく自分から声をかけた。

「……お前こそ、冷えないのか」
「大丈夫だよ。騰蛇こそ、すごく湿ってるよ」

 孫の手が伸び、白い毛が梳かれた。無意識に長い尾が揺れる。

「中に入っていればいいのに」
「俺の居場所はそこじゃない。それに暑さ寒さも関係ない。構うな」
「構うよ」
「何故」

 荒々しく乱された子供のような甲高い声がきつい眼差しと共に晴明の孫に向けられた。
 しかし彼は怯えもせず、逆に騰蛇の頭を撫でる。その瞳は澄み切った湖面のように凪いでおり、あくまで平静だった。騰蛇の刺々しい神気をまるで感じていないようだった。
 耳の裏側に当てられた指先の温度がだんだんと奪われて冷えていく。失われる温かさに、騰蛇は不意に夢を思い出した。
 ――あの夢に出てきた子供も、同じような体温だった。
 孫がふっと微笑む。その笑みに目を奪われ、騰蛇はつかの間言葉を忘れた。

「俺が嫌なんだ。騰蛇が暗くて寒い場所にいるの。それじゃ理由にならない?」

 差し伸ばされた両腕が近づいてくる。呆然とした騰蛇は気づかなかった。まるで壊れ物を扱うように抱き上げられてから、ようやく彼の胸元にいることに息を呑む。その手つきに、彼が動物を抱え慣れていることが知れた。

「じゃ、俺の部屋いこっか」
「は……?」
「お節介受けたほうがいい時もあるんだよ。知らなかった?」
「何を……」

 言いかけ、騰蛇は言葉を飲み込んだ。
 本当は。
 本当は、彼の式にくだってもいいと思っている。なのに自分は彼の顔も名も覚えられない。――これでは式になれない。よしんばなれたとしても、騰蛇の矜持が許しはしない。だから人界で彼の側に留まっている。いつか、彼を記憶に残せるようにと。
 いつか。その日が来るのかどうかすら、騰蛇にはわからないのだが。

「騰蛇」

 呟くように声が落とされる。その声に応え、騰蛇は彼をじっと見上げた。

「……無理に頑張らなくてもいいんだ」

 泣き笑いのような表情が、その顔に浮かぶ。

「俺はね、騰蛇がここにいる、それだけでもう十分なんだよ」

 どういう意味だ、と聞きたかった。けれど彼の笑みが――今にも泣きそうなその笑みが、騰蛇を躊躇わせた。
 暗い廊下を抜けて彼の自室に入る。神将達の気配はない。灯りひとつない闇の中、彼は几帳や衝立を器用に避けると茵へとまっすぐ迎い、ひょいと騰蛇を下ろした。慌てて解放された騰蛇が振り返ると、彼は大袿を引っぱってもう茵にもぐりこんでいた。
 おい、と困惑して呼ぶと、孫はぺしぺしと袿の端を叩く。意味がわからなくて騰蛇が突っ立っていると、むっとした表情を作った彼は、片手で騰蛇を茵に引きずりこんだ。驚いて狭い空間の中で暴れると、二本の腕が騰蛇をぎゅっと抱きしめて身動きが取れなくなる。
 焦り、何とか袿の外にぷはっと顔を出して息をする。と、頭のすぐ後ろで小さな囁きがした。はっと息を呑み――騰蛇は、慣れない体温の中で、ゆっくりと力を抜いていった。
 どくどくと響く心臓の音。それに乗って、囁きの残響がいつまでも巡っていくようだった。

「……おやすみ、騰蛇」