初夏

「あっついな」
「暑いね」

 昼間に買ったポカリスエットは熱を吸ってすっかり温くなっていた。変に甘ったるくなった残りを飲みほして、ペットボトルを放る。空のボトルは教室の隅に飛び、音を立ててゴミ箱の中に落ちた。
 ぱちぱちと昌浩が手を叩く。比古はVサインを作って見せ、机の上の鞄に手を伸ばした。

「しかし先生もひどいな、俺達だけに任せておいてどっか行って」
「何か奢ってもらおうか、明日になったら」

 教室を出る。廊下を歩きながら比古が腕時計を見ると、時刻はもう六時を過ぎていた。どうりで腹が空くわけだ、と肩をすくめて階段を下りる。仕事を生徒に押しつけてどこかに行ってしまった教師を探し出し、菓子パンかアイスでもたかろうか、と考えたがやめた。いい加減疲れていたから、早く家に帰りたかったのだ。
 靴を履き替えて外に出ると、強烈な西日が目に刺さる。比古は眩しげに目を細め、何とはなしに、遅れて出てきた昌浩を振り返った。

 夕日に照らされた昌浩も、比古と同じように目を細めていた。オレンジの光を映した頬は薔薇色に染まり、汗に濡れた黒髪が一筋、乱れて貼りついている。気だるげに瞼を伏せると、昌浩は乱暴に額の汗を拭った。微かに唇が動き、何事かが呟かれた。比古には全く聞き取れなかったが――多分、暑さに対する悪態だろう。
 半分隠された瞳の焦点が比古に合わされ――瞬間、比古は我に返り、慌てて顔を背けた。
 どっと汗が噴き出、熱射病にかかったときのように頭がくらくらした。気のせいだろうか、なんだか気温が上がった気がする。むしむしして気持ちが悪いし、変に息が詰まる。
 足音も荒く先に歩き出した比古を、昌浩はつかの間きょとんと見送った。だがすぐに小走りに追いかけ、横から比古を見上げてくる。昌浩は比古より頭ひとつ分ほど小さく、そのことで比古はよく昌浩をからかっていた。並んで歩くといつも軽い優越感を覚えるものだったが――今日は、そんなものを感じる余裕など微塵もなかった。
 昌浩の顔をまともに見ることができない。見ようとすると一連の動作がフラッシュバックのように視界を塞ぐのだ。なのに昌浩は比古と視線を合わせようして、無邪気に覗き込んでくる。

「比古、どうかした?」
「……いや、なんでもない」

 視線を逸らしたまま、比古は昌浩の髪の毛をくしゃくしゃとかき混ぜた。途端に嫌がって彼が跳び離れる。見なくとも、昌浩がどんな顔をしているかは予想がついた。おそらく口をひん曲げて、比古を睨みつけているのだろう。昌浩は頭を撫でられるのが嫌いなのだ。
 沈黙が怖い。だが視線を通わせる勇気はまだない。だから、比古は無理に息を吸いこんで、声を張り上げた。

「あのさ、俺の家犬飼ってるだろ。今の時期はアスファルトが冷えてからでないとできないから、散歩の時間がどうしても日が暮れてからになるんだ。それがめんどくさくてしょうがないんだよな」
「……たゆらと、もゆらだっけ。いいなー、大きい犬」
「簡単に言うなよ。散歩大変なんだからな」

 昌浩は一瞬首を傾げていたようだったが、比古の不自然な態度については聞くのをやめたようだ。今は明るく笑っている。その笑顔を正視しようと何度か試してみたが、校庭を抜けて校門に辿り着く間に成し遂げることはできなかった。
 学校の外に出て、狭い歩道を歩く。並んでいるために手が微かに触れ合い、互いの小指と小指が擦れる。
 つい昨日まで、いや今朝まで何度もあったことだというのに、それはまるで初めて経験することのようだった。
 ぞくぞくする痺れが指から腕へ、腕から胸へ、胸から背骨へと走っていく。甘やかな感覚に戸惑い、昌浩をほんの僅か盗み見たが、彼はこの感覚を共有してはいないようだった。
 気づいているのは比古ひとり。

(どうしよう)

 分かれ道までの距離は一歩一歩近づいている。
 指が本当に離れたその時に、この感覚の正体ははっきりしてしまうのだろうか。