一陣の風もない夏の朝。
いつものように昌浩は門のところで彰子に見送られ、物の怪を肩に乗せて歩いていた。周囲には薄く霧がかかり、草花が夜露に濡れ、玉のような雫が葉の上で光っていた。あと数刻もすれば、高く上ってくる太陽に焼かれ、水分がとんで乾くだろう。
「孫ー」
「孫ー」
『孫ー!』
「孫言うなっ!」
常人には聞こえぬ大合唱に怒鳴り返して、昌浩は胡乱げに辺りを見回した。すると少し離れた角から、大勢の雑鬼たちがわらわらとやってくる。いつもいつも潰れと一緒にやってくるのに今朝はそうではない。嫌な予感がして、昌浩は先頭に立っている角の生えた丸っこい妖を睨んだ。けれど雑鬼たちは気にすることもなく、わらわらと昌浩の足元に集まってくる。
「朝から元気だな、孫ー」
「でも近所迷惑だぞ、孫ー」
「小魚食べてるか、孫ー」
「………っ!!」
言葉もなく、ふるふると拳を震わせて昌浩が呻く。その頭を、肩に乗ったままの物の怪がぽんと撫でた。
「成長したな、昌浩……」
そんな物の怪を目の据わった昌浩がべしっと払う。そのままぼてっと落ちた物の怪と、さんざん孫呼ばわりされたことにはあえて触れず、昌浩は腕を組んで雑鬼たちを見下ろした。
「お前ら、もうすぐ寝る時間じゃないのか。俺は今から参内なんだ、用件があるなら手短に話せ」
「おー、話がわかるな孫ー」
「ちょっと偉そうだけどなー」
「だーかーらー…!」
「こっちに連れてこいよー」
一つ鬼がぴょいぴょいと飛び跳ねて角に向かう。するとその先から猿鬼がとことこと、腕に何かを抱えて走り寄ってきた。その中にあるのは、茶色くて小さくてふかふかな………
「……仔猫?」
『そのとおーり!』
とたんに猿鬼以外の雑鬼たちがぴょんぴょんと跳ねた。猿鬼に抱えられている小さな仔猫は、丸い緑の瞳をいっぱいに見開いて、ひたすら無垢に昌浩のことを見上げている。物の怪がその視界を遮るように、仔猫を覗きこんだ。
「だからってこいつをどうしたいっていうんだ。まさか育ててくれなんていうわけじゃ……」
「お、すげーな式神! 話が早い!」
「……………はい……………?」
ぽかんとして、昌浩と物の怪は雑鬼たちを見た。あっけにとられている一人と一匹を余所に、雑鬼たちが口々に言い募る。
「最近よく犬とかが死んでるだろー」
「あれ妖の仕業なんだー」
「動物のはらわた喰い破って消えちまうんだよー」
「ゆうべこいつの母親が喰われちまってさー」
「地面からでっかい口が、こうがばっ! とな」
「そんでこいつだけ生き残ってさー」
「猫って霊感高いだろ? 一部始終見てたのに知らん振りしたら祟られそうでさー」
「かといって俺たちで育てたら猫又になりそうでさー」
『だから頼む、孫っ!!』
最後の大合唱に心の耳栓をしながら、昌浩はおずおずと猿鬼の手から仔猫を持ち上げた。夜露に濡れて、黒と茶の虎縞がふるふると震えている。直衣の袂で濡れている箇所を拭ってやりながら、昌浩は困り果てて物の怪に話しかけた。
「そんなこといわれてもなあ……うわ軽いしちっちゃいし……ひゃあ、尻尾細い……膝の上の頼りない四足の感触が」
「こらこら昌浩、お前可愛さに騙されて流されるなよ」
「……でも可愛い……」
むくれた昌浩がしゃがみこんだ膝の上で丸くなる仔猫を撫でた。じい様や父上や母上に相談しないとなあ、あ、俺がいない間彰子のいい友達になるかも。いいじゃん、彰子と一緒にお願いしたらじい様だって折れるかもしれないよねー、などといってつれない物の怪を無視し仔猫ののどを撫でる。くるくるとのどを鳴らし、仔猫は高い声で、みー、と鳴いた。
無視されてかちんときた物の怪は、いきなり昌浩の横脇から隙間にぐりぐりと頭を突っ込んだ。赤い目で仔猫を睨んで、膝によじ登りながら反論する。
「駄目だ駄目だ! だいたいこいつらの理屈からすれば、お前の家だって駄目だろうが。上から下まで陰陽師、見鬼はいっぱい! 式神は横行! たまに高於の神だって降りてくる! 猫又になりそうな条件満たしすぎだ!」
「……でも猫又になっても可愛いんじゃない?」
結局登攀に成功した物の怪の魔の手からやんわりと仔猫をすくい上げ、昌浩は小首を傾げた。どうやら彼の頭の中はどうやって親たちを丸めこむかでいっぱいらしい。むう、以外に難敵、仔猫めー……とひとしきり歯軋りをし、物の怪は考えこんだ後、直立して昌浩を正面から見据えた。(ただし膝上)
世の親たちが古代から受け継いできた伝統の手法……ようするに説教である。
「いいか昌浩、そいつは命だ。生き物を飼うということは、そいつの命の全責任を負うということになる。ひと一人育てるのと何もかわりがないんだ。それにそいつらはお前たちよりよっぽど早く死ぬ。ちゃんと終わりを見届ける勇気も必要なんだ。お前にそれができるか? 生き物を飼うってことはそういうことなんだ」
「……………」
とたんにしゅんとして昌浩が視線を落とす。その手の中で仔猫はまた高く声を上げた。にぃにぃと親を呼ぶように鳴く仔猫をそっと撫で、昌浩はしばらく押し黙っていたが、やがて心を天秤ではかり終えたのか、意を決したように顔を上げた。
「わかった」
『えー?!』
「よし、んじゃ元のところに戻してこい」
『えー?!』
いちいち不満の声を上げる雑鬼たちは無視すると、物の怪は仔猫を運んできた雑鬼をびっと黒い爪で指した。それを受けて猿鬼が慌てて両手を隠す。だが即座に物の怪に睨まれて、猿鬼は仲間と一緒にずるずると後ずさった。
「ひでーぞ式神! 血も涙もねえ野郎だな!」
「冷血漢!」
「人非人!」
「人聞きの悪いことを……」
くわっと牙をむき出しにして物の怪が威嚇する。だが突如その体がひょいと持ち上がった。
「じゃあ俺、猫飼いたいっていう人見つけてくるね」
右手に仔猫、左手に物の怪。
いきなり首根っこをつままれてなすすべなくじたばたと足掻く物の怪に、昌浩はさわやかに言い放った。
「猫飼いたいっていう貴族の子女はたくさんいるし、飼い主見つけるのはそう難しいことでもないと思うんだ」
「おー、孫ー! さすが陰陽師!」
「陰陽師関係ないだろう。おいこら昌浩、そうは言ってもだな、話しつけるまでそいつを世話しなきゃならなくなるんだぞ?」
「うん、だからね、」
よいしょと物の怪を地面に下ろし、昌浩はその正面に仔猫をさし出した。
「俺が飼い主見つけるまで、もっくんが育ててくんない?」
「……………はあ?」
「おー! それは名案!」
「俺たち昼間起きられないしな!」
「その点もっくんなら神様なんだから寝なくても大丈夫。一日中つきっきりでお母さん役しててよ」
さらりと言い放たれて、物の怪がぴしりと凍りつく。その真正面で、仔猫が固まった白い毛並みをまじまじと見つめ、ふんふんとにおいを嗅いだ後、甘えるようににぃー、と鳴いた。その甲高い音にはっと気づき、少し狼狽しながら物の怪は反論した。
「いやいやちょっと待て、俺は猫なんか育てたことはないぞ」
「乳離れは終わってるぜー」
「葦原でねずみとか獲って食わしゃあいいぞ」
「……育てる場所だって、どこにすりゃあいいか……」
「ああ、それは車之輔に頼むよ。車之輔嫌がるかもしれないけど、俺からの頼みってことで、悪いけど後で言っておいて?」
物の怪は両手を合わせて『お願い』の仕草をとる昌浩と、目の前にちょこんと座る仔猫を見比べた。仔猫は大きな瞳をぱっちりと開けて、ひたすら純真に物の怪を見上げている。首の筋肉が石のように固まって、一生動かなくなるのではないかと思うほど、物の怪はその無垢な視線から目を逸らすことができなかった。
そんな物の怪の葛藤を見抜き、昌浩はすばやく立ち上がった。
「じゃあその子つれてってね。俺は夜中に母親を殺したっていう妖も探してみるよ」
「な、何? ちょっと待て、昌浩……っ」
「だってもう時間ないんだもん。だからよろしくねもっくん」
言い置いて、昌浩はひらひらと手を振るとたったか駆け出した。残された物の怪は咄嗟に追いすがろうとしたが、仔猫のみぃ、という鳴き声と、わらわらと進行方向を塞ぐ雑鬼たちに阻まれた。のどの奥でぐうと唸ると、雑鬼たちが意地悪く仕返してくる。
「大人は責任取るもんだよなー」
「……………お前らなあー……………」
ぎりぎりと歯軋りすると、仔猫が鳴いて擦り寄ってくる。物の怪は額の花模様に皺を何本も寄せると、仔猫の首を咥えて持ち上げた。
(大人は責任を取るもんだ)
たとえばそれが、子どものものでも。