朝起きると、大袿の端っこで丸まっているはずの物の怪がいなかった。
「……もっくん?」
昌浩は眠い目をこすると、自室の妻戸を開けた。彰子が起こしに来る前に目覚めるのは久方ぶりだ。大抵彼女がやってきて昌浩と物の怪は目を覚ます。今日も出仕しなければいけないから来るだろう。しかしながら昌浩はいつまでたっても彼女が起こしに来ることに慣れずにいたので、今朝早めに起床できたのは僥倖だった。
「もっくーん、こら、物の怪ー」
からりと妻戸を開けた先の空は、まだ暗さを残した深い藍色だった。足先で触れる簀子からは冷やりとした冷たさが這い登ってくる。十一月も終わりになる空気は冷たく、昌浩はぶるりと身を震わせた。
「……さむ」
廊下の先を見通しても、白い影はいなかった。水でも飲みにいったのか、いや物の怪が水分をとるところは見たことがない。けれど先日干し桃を食べていたのを思い出して、昌浩は眉を顰めた。不思議な生き物だ、あの物の怪は。
冷えた空気のおかげですっかり頭が覚醒した昌浩は、ぴしゃりと戸を閉めると部屋に戻った。隅にある唐櫃から単衣と直衣を引っ張り出してもそもそと着込む。こういう冷えた日はあのふかふかの毛皮を首周りに巻きたくて仕方がない。全くどこをほっつき歩いているんだ物の怪のくせに。
むう、と朝からだんだん不機嫌になっていくのを自覚しながら、文台に向かい髷を結う。烏帽子をかぶったところで、ちょうど妻戸が開いた。
「昌浩、起き―― ……あら?」
「おはよう、彰子」
「おはよう、昌浩。……珍しいのね、今日は早いの?」
「ううん、早く起きちゃって」
鏡を見ながら、烏帽子のずれを直す。彰子は昌浩の側に寄ってくると、傍らにあった円座に腰を下ろした。くるりとそう広くもない部屋を見回し、きょとんとする。
「……昌浩、もっくんは?」
「え、彰子も知らない?」
彰子はこくりと頷いた。昌浩は鏡を覗きこむのをやめて振り返る。
「朝起きたらいなかったんだ。どこいったんだろ」
「晴明様に聞いてみたら? あの方ならご存知になっていらっしゃると思うけど」
「げ」
昌浩は潰れた蛙のような声を出した。なるべくなら、どんなことでも祖父には頼りたくない。けれどもあのたぬき爺は物の怪の主で、何かを言いつけられた物の怪が用事で出ていったという可能性もあるのだ。
しばらく昌浩は嫌そうに顔を背けていたが、観念したのかため息をついた。
「……そうしてみるよ」
「そろそろ朝餉の用意ができる頃よ」
「うん、わかった」
よいしょと立ち上がる。ふたり連れだって妻戸を開けると、通りがかったのか、隠形していない玄武が昌浩達を見上げた。
「あ、おはよう玄武」
「うむ。……朝餉ができたそうだ」
どうやら玄武は通りがかったのではなく昌浩を呼びに来たらしい。彰子がありがとう、と返すのを聞きながら、昌浩は思い当たったのか、幼い神将に首を傾げた。
「ねえ玄武、もっくん知らない? 朝から見ないんだけど」
「騰蛇か? 騰蛇ならば、昨晩遅くに晴明に呼ばれて、なんでも使いを頼まれたそうだが」
なんだ、知らなかったのか。
玄武は意外そうに目を瞬いた。その視線の先の昌浩といえば、難しい顔をして、不機嫌そうに中空を睨んでいる。数瞬の沈黙の後、昌浩は身を翻すとすたすたと歩いていった。
「あ、昌浩……」
慌てて彰子がその後を追う。玄武はしばらくその後ろ姿を眺めていたが、やがてふいと陰形した。
(もっくんの馬鹿)
せめて一言言ってくれればいいのに。それでなくとも、書き置きをするとか。なんのための本性だ。それとも字が書けないなんてことはないだろう、神様の癖に。それとも長生きしすぎてそこまで耄碌したのか、物の怪ー。
心の中で盛大に罵詈雑言を投げつけながら、昌浩は粥をすすった。もちろん悪口の相手は白い物の怪である。
それにしても朝からこんなに怒るのも気分が悪い。それもこれも全部もっくんのせいだ。絶対そうだ。あーむかつく。
かつかつとおかずを口に運びながらも、昌浩の物の怪こき下ろし大会は終わらない。と、そこへ物の怪の主人であり彼の祖父である、安倍晴明がひょうひょうと入ってきた。
「おお? なんじゃなんじゃ昌浩、朝から随分荒れておるのぉ」
「おはようございます。……誰のせいだと思ってるんですか」
このたぬき、と心の内で一言付け加えてから昌浩は椀を置いた。根本的にはこの食えない祖父が真夜中の真夜中に使いなど頼むからいけないのだ。自分の式神だからって、少しはいたわってやったらどうなんだ。大体なんであの物の怪に頼むのだ、大概の用事なら六合や天一達で済ませられるだろうに。
とそこまで考えてから、はたと気づいて祖父を見上げる。
「じい様、もっくんに頼んだ用事って、なんか危ないことじゃないでしょうね」
「……おや、お前紅蓮に聞いておらんのか?」
「……それさっきも玄武に言われました。聞いてません」
「ほーお、そうか。聞いておらんのか。やれやれ、紅蓮め……」
祖父は頭を振って、なにやら感心したような、けれどもほくそえんでいるような、奇妙な表情をした。気持ち悪いなあ、と気分を悪くして、昌浩は水を飲む。とその時、低く険しい声に呼ばれ昌浩はぎょっとした。
「おい」
「っわあっ」
必要以上に反応してしまったのは、声が真後ろから投げかけられたからだ。水の入っている椀を取り落としそうになって焦る。ぱっと振り返ると、いつも晴明の側についている青龍がじろりと昌浩を見下ろしていた。
「子供」
「子供言うな」
昌浩が反射的に返し、青龍は眉間に皺を寄せた。見えない火花が二人の間を散ったように思え、晴明はもの珍しいものでも見るように興味深く観察する。
一瞬の沈黙の後、青龍は再度口を開いた。
「式が危険な橋を渡るのは当然のことだ。お前如きが口を挟む余地はない。それに騰蛇は主の命に従っているのだ、黙れ」
「これこれ宵藍」
乱暴な口調を晴明が諫める。一方怒気混じりの言に目を見開いていた昌浩は、むっとして青龍を睨みつけた。
「なんだよ、心配するのは当たり前だろ」
「そんなものはいらないと言っているんだ」
「式だからとか、そんなの関係ない。一つ屋根の下に一緒に住んでるんだから」
昌浩の言葉に、青龍が眉間の皺をさらに深くする。深い溝のようなそれを、昌浩は彼の機嫌が降下したととったらしい。剣呑に青龍を見上げている。けれども晴明は袂から扇を取り出すと、ぱちりと開いて口元を隠した。
もしかすると、これは。
「俺は六合だって玄武だって朱雀だって心配するぞ。もちろん青龍、お前もだ。そりゃお前は俺のこと嫌いなのかもしんないけどさ、誰だって知り合いとか、友達とか、家族が危ない目に遭うのは嫌だろ。それと同じだよ」
真っ直ぐ青龍を見つめて言い切った後、昌浩は箸を置いた。ごちそうさまと行って来ます両方を一挙に告げると、慌しくばたばたと駆け出ていく。どうやら時間が押していることに気がついたらしい。ふたり取り残された格好になった青龍と晴明は、数拍の間、お互いの呼吸をはかっていた。
「……宵藍や」
「……………なんだ」
いつにもましてぶっきらぼうな返事に、晴明は笑いで引きつりそうな口元を、扇で必死に抑えていた。
「お主、昌浩に気を遣わせまいとしてくれたな?」
「なんのことだ」
「よかったのう、あまつさえお主自身も気にかけてやるとまで言われ、」
「黙れ」
そっぽを向かれて吐き捨てられる。それでも晴明はにやにや笑いを止めず、むしろ増長させた。
「照れるな照れるな。しかしなあ、お前もちゃんと名前で呼んでやればいいものを。そうすれば昌浩の心象度も向上したかもしれんのにのう」
「……興味はない」
徹頭徹尾して冷たく応じ、青龍は隠形した。しかしすぐに気配が掻き消える。どうやら異界に戻ってしまったらしい。ひとりになった晴明は、おかしそうにくっくっと喉を鳴らした。
本当に、あの孫は面白い。