「騰蛇」
日の当たる簀子に出ていた騰蛇は、背後で己を呼ぶ声に振り返った。昔は晴明が使っていた――今では孫の自室となった部屋へ、とてとてと入っていく。今日は天気がいいからと彼の妻に半分上げられた蔀戸の向こうには青空が覗いているが、そろそろ風が冷たくなってくる頃だから下ろした方がいいだろう。
もちろん、騰蛇が指摘せずともほかの十二神将は心得ているだろうが。
几帳や衝立、屏風が配された部屋の中を進むと、晴明の孫が茵に横たわったまま手招きをしていた。騰蛇がその枕元にちょこんと座ると、彼は青白い顔で微笑み、手を伸ばした。
「手を繋いでくれないかな、騰蛇」
「それは、」
「お願いだからさ」
騰蛇は逡巡したが、じっと見つめてくる黒い瞳を見返すと本性へと姿を戻した。久方ぶりに戻った高い目線からの風景は、何もかもが違って見える。孫は子供の頃に比べれば随分背が高くなったと思っていたが、こうして見下ろしてみると何も変わらない気がしてならない。
彼はこんなに小さかっただろうか。
疲れたのか、ふらりと揺れた手に騰蛇は慌てて触れた。冷たい指が弱弱しく握り返す。じわじわと、彼の裡を焼く焔の波動が触れた先から伝わってくる。
若くして天狐の力を発動させてしまったせいなのだと、彼自身が告げていた。一度覚醒してしまった焔は決して眠ることなく体の中で燃え続ける。時を経るごとに勢いを増してゆく狐火は、道返の巫女から授かった丸玉でも完全には抑えきれない。肥大していく霊力は彼の体力を削り、身体を弱くした。
まだ三十年も生きていないこの命は、そう遠くない未来に燃え尽きる。
すでに猶予はないのだと眼前に突きつけられた気がして、騰蛇は震える唇を動かした。
「――お前の名を、どうしても覚えられない」
何年も言い出せなかった望み。
口にするには途方も無い勇気が必要だった。数々の妖異を相手にしてきた過去の中でも、これほど心を震わせなければならない時はなかった。ただ炎で敵を焼くだけであれば簡単に終わるというのに、心を、感情を、相手に伝える為の戦いはなんと難しいものだろう。
しかし逃げるばかりでは伝わらない。ぐずぐずしていれば道は絶たれてしまう。だからこそ、今この瞬間に彼に伝えなければならなかった。
「覚えていたいのに」
ひくりと、彼の腕が動いた。次いで黒瞳が夢見るように閉ざされる。
一拍置いて再び現れたその時、彼の双眸には強い意思の光が灯っていた。
騰蛇の手がきつく握りしめられる。
「じゃあ……」
――まどろみの中で見る、遠い追憶だ。
ふとしたことで、意識が過去へと飛んでしまうことがここ数年で多くなった。勾陳などはとうとう耄碌したか、と笑っている。笑われた騰蛇当人は表面上鼻で笑い飛ばしていたが、内心では笑い飛ばせるはずもなかった。
なぜなら、白昼夢はいつだってあの子供のものだったからだ。
平安の世はもうとうの昔に過ぎ去っている。あれから騰蛇は――十二神将達は幾人もの主を得た。主達は安倍の血を継ぐ者であったり、時にはそうでない場合もあったが、神将達にとってはそれはさして意味を持たなかった。
ただ、主達の気性はどこかしら似通っていた。
白浜の松林、その中の枝の上に立ち、白い物の怪は遥かに霞む水平線を見つめた。
主達は晴明に似ていた。どうして似ているのだろうかと自問することは絶えなかった。自分達がどうしても最初の主を彼らの中に求めてしまうのかもしれないと、そう考えたこともあった。その答えは今でも見つからない。もしかしたら、答えを永遠に求めることのできない問いなのかもしれない。
けれど、けして晴明を求めているわけではなかった。十二神将達は主達それぞれを愛していた。それは事実だ。
自分を受け入れてくれる人間がいるはずがないと諦めていた騰蛇の前に、幾人もの人間が現れてくれた。晴明と同じように暖かい光で、彼らは騰蛇を導いてくれた。だから、騰蛇も彼らを愛している。光をくれた彼らに感謝している。
青い空と海の狭間、その境目を騰蛇はぼんやりと見つめていた。――その時だった。
ぴしりと金属が砕ける音がし、騰蛇は瞠目した。ここ数百年でこの音を何回聞いたのか、もはや数えてはいない。だが幾度鳴ろうとも慣れることはなかった。
この音は晴明とのつながりが断たれる音。
騰蛇の額を飾っている、銀冠の砕ける音だ。
この銀冠を再び施すすべを――封じの術を行える人間はこの世にはいない。この術が書かれていた書物は全て火に投じられ灰になっている。銀冠が砕け落ちていくことに不安を示す騰蛇を見かねて、主達は皆その術を復活させようと研究を続けていたが、叶うことはなかった。先代の主も努力してくれたが、失われた術を完成させることはできずに数年前にこの世を去ってしまった。
もう長い間本性に戻っていない。だから銀冠の損傷具合を己の目で確かめたことはなかったが、己を封じる縛りが壊れかけていることは手に取るように感じられた。おそらくあと数回。あと数回破片が零れ落ちてしまえば、銀冠は粉々に砕けて砂に還ってしまうのだろう。
右の前足が小刻みに震える。力を込めて枝を踏みしめ、騰蛇は震えを強引に押し殺した。
銀冠は戒めだ。騰蛇の心を戒めるためのものだ。もう無くともいいのではないか、と言われたこともある。だが騰蛇には必要なものだった。強すぎる力を持つ彼にはどうしても必要な枷なのだ。
(それなのに)
黒い爪が松の表皮をがり、と削った。喰いしばった歯列の間から重苦しい呻きがもれる。
(……どうしてお前が、あれを燃してしまったんだ)
青白い顔で書物を数冊庭に出していた。ふらふらとして今にも倒れそうな夫を、妻の――そう、彰子という名の美しい女性が制していた。周りには十二神将達も出てきていて、彼らにたしなめられたり叱られたりもしていたが、孫は頑として誰の言うことも聞かないでいた。
(騰蛇)
騰蛇が屋根の端でその様子をはらはらと見守っていると、彼は騰蛇に手を振った。途端顕現していた太陰がさっと白虎の陰に隠れ、簀子で孫の一人息子を抱いていた天后が眉根を寄せて顔を背ける。露骨な反応に騰蛇が気分を害していると、孫は手招きしてもう一度騰蛇を呼んだ。
(騰蛇、手伝ってくれないかな。火が欲しいんだ)
(……朱雀に頼め)
(騰蛇がいいんだ)
頼むよ、と言って笑った孫の頭を、後ろから朱雀が小突く。けれど孫はその場に立ったまま騰蛇を見上げていた。
自分が降りていかない限り、孫は屋敷の中に入る気はないのだろう。
ため息をついて飛び降りると、太陰がふっと姿を消した。異界に行ってしまったらしい。ふんと不機嫌に鼻を鳴らし、騰蛇はすでに組んであった薪に視線を向けると、神気を発して火を点けた。
(これでいいのか)
(うん、ありがとう)
孫が屈んで騰蛇の頭を撫でた。そうして離れた手が、持ってきた書物を一冊掴む。
あの時、彼が手に取っていた書が何であるかを知っていたら、火なぞ与えなかったものを。
ぱちぱちと音を立てる炎に書物をくべるとき、孫は笑んでいた。何かを愛おしむような、そんな笑みだった。
騰蛇はそれを思い出し――思い出せて、息を詰まらせた。
顔が。
彼の顔が、思い出せる。
心臓がばくばくと早鐘のように鳴り出した。きいんと耳鳴りがするほど血の巡りが、鼓動が早まっていく。喘ぎながら、物の怪は夕焼け色の大きな瞳を見開いた。
「あ………っ」
思い出す。
まだ十を幾つか過ぎたばかりの幼い顔。
虚ろな黒い目がこちらを呆然と見返していた。まだ騰蛇が彼に出会ったばかりの頃の顔だ。最初に会った時、彼は騰蛇に対してどう接して良いのかわかりかねていた――その頃の幼い彼を克明に描くことができる。
彼に抱いていた怒りが瞬時に霧散し、心を焼き焦がす焦燥が騰蛇の胸を満たす。枝から飛び降りて地面へと落下しながら、騰蛇は数百年ぶりに異界へと身を躍らせた。
「こう……っ、勾!」
異界は何も変わっていなかった。荒涼とした地が続く、太陽の無い空。人界に慣れきった身にその空はなんとも息苦しく、物の怪から本性へと変化した騰蛇は大声で仲間を呼んだ。
「勾、いないのか! ……誰か、誰でもいい、誰かいないのか!」
「どうした、騰蛇。人界で何かあったのか」
「勾……!」
騰蛇が振り向くと、勾陳が駆け寄ってくるところだった。常に無い騰蛇の様子に眉をひそめながら問う彼女に、騰蛇は息を荒げて告げた。
「思い出せたんだ、あいつが! ……晴明の孫だ!」
勾陳が息を呑んで立ち竦む。彼女の動揺に、しかし騰蛇は気づかなかった。顔を片手で覆いながら震える声で続ける。
「まだ顔だけだが……思い出せた。思い出せたんだ……」
騰蛇の指の先で、また銀冠から欠片が零れ落ちた。だが彼はその音にも気づいておらず、ただ嗚咽に近い呻きを堪えていた。
銀冠の役目が終わる瞬間は近い。
代わりに長い刻の中で培われ、育ったものが騰蛇を護るだろう。
新しい枷は眼に見えない。が、以前額を飾っていた冠より余程頑強にできている。
だから、何も心配することはないのだ。
「――お前の名を、どうしても覚えられない。
覚えていたいのに」
どのくらい、その言葉を待っていたのだろう。
切ないほどの嬉しさが心臓を締めつける。昌浩は一度目を閉じた。でなければきっと泣いてしまっていた。
残り少ない時間の中、与えられた奇蹟に感謝する。一からやり直した関係がとうとう実を結んだ、その事実に全身が痺れるようだった。
もう力の入らない指で、精一杯紅蓮の温かい手を握りしめる。そうして、もう二度と見ることのできないかもしれない金の瞳をじっと見上げた。
彼の名を呼ぶ。心の中だけで。
ありったけの祝福を込めて。
「じゃあ、おまじないをかけてあげよう」
「……禁厭?」
「そう」
微笑んで、昌浩は手を伸ばした。その指が銀冠に触れる。昌浩が施した、昌浩に関する全ての記憶を封じる戒めに。
小声で呪を唱え終えると、昌浩は紅蓮の頬をそっと撫でた。
「騰蛇がいつか、俺を思い出せるように」