「短刀直入に聞くが」
向かいで塩茹でされた枝豆の皮を剥いていた勾陳が顔も上げずに呟いた。三本目の缶ビールのプルタブを開けるところだった紅蓮が野球中継から視線を離すと、勾陳は――今まで彼女とつきあってきた十数年間の中でも思い出せないような、真剣な表情で――剥き終わった枝豆をつまみながら、言った。
「お前と昌浩はどこまでいったんだ?」
「――――?!」
折りしも缶のふちに口をつけるところだった紅蓮は盛大に噎せた。げほげほと咳きこみながらもビールをテーブルに置くと、勾陳が精緻なネイルアートを施した指で枝豆を唇に押しこむところだった。もう一方の手には黒の缶ビール。紅蓮が凝視しているのに気づいているのかいないのか、質問しておきながら彼女はテレビから流れる実況にのんびりと耳を傾けているようだった。
咳きこんだ喉をごまかすため、紅蓮は今しがた開けた缶に口をつけた。泡が喉から食道を通って胃に落ちていくまでの数秒間、彼の頭の中ではいくつもの弁解と言い訳と、逆に、なんでお前が知ってる?! との疑問が渦巻いていたが、苦さが口内から消える頃、それまで犬のように唸っていたのをやめてようよう口を開いた。
「あー、その、どこまでっていうのは、具体的に……?」
「つくづくまどろっこしい男だな。英語で言うABCだ。キスまでかペッティングかそれともセックスまでいったのかと聞いて」
「わー!わー!」
何故に美人から発せられる卑猥な単語はこうも威力があるのだろうか。思わずテレビからの騒がしい声援を掻き消すくらいの大声を出してしまい、眉をしかめた勾陳に忌々しげに睨まれる。安部家の祖父と息子夫婦が旅行に出かけていないのを幸いに、始めてしまった酒盛りを嫌った下の弟二人は早々に二階に避難してしまっていた。もしかしたら何事かと思うだろう。
「大声を出すな。昌浩達が下りてきたらどうする」
「す、すまん」
「それで? 付き合っているんだろう、どこまでいったんだ」
「ちょっと待て勾」
鏡を見なくても、自分の顔が引きつっているのがわかる。
紅蓮は傍から見たらまるで顔面神経痛を患っている人間のように、ぎこちなく笑いながら言った。
「俺はお前に何も言ってなかったと思うんだが…」
「お前は馬鹿か?」
大きなため息をつかれた。哀れむような眼差しに紅蓮がぐっと黙りこむと、勾陳は缶ビールをあおる。紅蓮の悶々とした胸中とは対照的に清々しいまでに喉を鳴らしながら飲み干すと、勾陳は枝豆に手を伸ばした。
「それくらい私が気付かないとでも思っていたのか。正月以来お前は始終にやけているし昌浩はぼんやりしていたかと思えば一人で顔を赤くしている。それに何かと二人きりになりたがるし、なったかと思えば生温い空気が流れるし」
ここまであからさまにされたら誰だって気付く。薄皮を丁寧に剥きながら告げる勾陳に、紅蓮は口端を引きつらせながら縮こまった。
「あー…勾。そのだな、いつかは言おうと思っていたんだが」
「別にいちいち私に報告する道理もないだろう。お前と昌浩の問題だ。交際は許可されて始めるものではない」
「………。そりゃどうも」
淡々と言葉を紡ぐ勾陳は紅蓮にとって意外だった。勾陳にとって昌浩は年の離れた弟で、下の弟の玄武ともども可愛がっているのを幼少の頃からよく知っている。ばれたら殺されかけるかと思い、あばらの一本や二本は覚悟していたのに。
テレビ画面の中では、青いユニフォームの選手がすがすがしい音を立ててヒットを飛ばしている。勾陳は残り少なくなった缶の中身を揺らし、頬杖をついて紅蓮を眺めていた。高揚したアナウンサーの声が二人の間に横たわる。
とうとう沈黙に耐えられなくなって、紅蓮は飲み終わったビール缶をテーブルの上に置いた。
「………まだキスしかしてない」
「それは何より。もしヤっていたら通報するところだった」
ごつん、と派手な音を立てて額が天板にぶつかった。
勾陳は薄くルージュをひいた唇を弧の形に歪め、残りのビールを飲み干した。
「自覚はあったようで安心したぞ。年の差を考えろとは言わないが、年齢は考えたほうがいい。私は友人をみすみす犯罪者にさせるほど薄情な女ではないのでな」
「いつまで清い交際でいろと……?」
「お前は中学生に何をさせるつもりだ」
「…………。っ、いでっ!」
「今下ネタに走ろうとしたな」
「……走らなきゃやっていられない心情だったんだ」
「まったく……」
後頭部にコブを作ってテーブルに伏せたままの紅蓮を見下ろしながら、勾陳は呆れてため息をついた。
昌浩が生まれてからだから――十三年。十三年も恋してきて、それが実った頃は成年男子。やりたいさかりだからしょうがないのかもしれないが、それでも勾陳は可愛い弟と可愛くない友人を秤にかければ迷わず弟を選ぶ。そこで友人を擁護するほど血迷ってはいなかった。
「まあ、十五になったら黙認してやる。それくらいになれば昌浩の責任だしな」
「本当か!?」
途端嬉々として顔を上げた紅蓮を、勾陳は先ほどまでとは一転した昏い眼で睨みつけた。気圧された紅蓮が反射的に背筋を伸ばして黙りこむ。勾陳の手の中に収まっていた空き缶が、ベキリと耳障りな音を立ててひしゃげた。
「――騰蛇よ。私が好きでこんなことを言っていると思っているか」
「……勾?」
氷のような声音は触れるだけで切り裂かれそうな凄みを帯びている。もしかして、もしかして、と心の中で呟いて、紅蓮は恐る恐る訊ねた。
「まさか………お前………怒ってるのか?」
「“まさか”?」
ぎらりと鋭くなる眼光はまるで冷やされたアイスピックだ。今更ながら紅蓮は、彼女がいつも通りに振舞いながらも、ずっと鬱屈した怒りを抱えていたことを悟った。
「私が、私の可愛い弟を、どうしてお前のような馬の骨にやると思っている?」
「……いや、わからん」
「昌浩がお前のことを好きだからだ。私はあいつの意思を尊重しているだけにすぎない」
でなければ誰が。誰がお前みたいな女泣かせの男に。
何本ビールを空けても酔わない酒豪の勾陳が珍しく酔い始めている。愚痴に近くなってきた繰り言に冷や汗をかきつつ、紅蓮は無言で新しい缶ビールを手渡した。目尻を赤く染めた勾陳はビールを一気にあおる。それからテレビに目を向けて、大きくかっ飛ばした敵チームの打者に呪詛の言葉をを投げつけた。
画面に中にいるのは、得意げにガッツポーズをとる野球選手。