紅蓮は微塵も疑っていなかった。
なんてったって恋人同士なのだ。両方男であるとか、片方は未成年だから淫行をはたらいたら犯罪者になるだろうとか、社会の壁は分厚くそびえ立っているもののそれでも何とかやっていたのだ。
その日紅蓮は鏡の前で意気揚々と身支度を整えて出陣した。隣接する幼馴染兼恋人の家に行くためだ。恋人は可愛いもののその家族は凶悪なまでに手強い難敵であり、こういう関係になってからというもの常に風当たりがきつい。いわば隣家は魔窟であり、恋人は囚われの姫君なのである。
勝手知ったるなんとやらで呼び鈴も押さずに隣家に上がりこむと、紅蓮は気配を探りながらそろそろと階段を上った。最も警戒すべきダークドレアムは居間で茶をしばいているようだし、デスタムーアが今日家に戻らないことは事前調査済みだ。残るはスライム・ドラキーレベルの障害のみになる。しかしその程度の障害は苦にもならない。
誰にも妨害されずに無事に階上へ辿り着くと、彼はノックもせずに目当てのドアを開け放った。
「よう昌浩! 遊びにき…」
「あら、こんにちは紅蓮」
なのだが。
年下の恋人の部屋には、なぜか別の少女がお邪魔していた。
「おはよ紅蓮。なに、なんか用」
そして恋人は気のない挨拶を投げて寄こし、チョコトリュフで指先を汚していた。
「彰子はすごいねえ、よくこんなの作れたね」
「ううん、そんなことないわ。だっていっぱい失敗したし……」
「でもちゃんと作れてるじゃないか。お菓子作りは料理より難しいんだって母さんが言ってたよ。俺には絶対無理だなー、尊敬するよ」
「や、やだ」
ぽっと可愛らしい頬を桃色に染めて彰子が俯く。笑顔でぱくぱくとトリュフを口に放りこむ昌浩の腕を、紅蓮は慌ててひっぱりあげた。
「ちょ、痛い痛い」
「いいからこっちに来い」
無理矢理廊下に連れ出して顔を突き合わせる。指に付いたココアを舐めている昌浩に、「あっちょっとエロい」と思ってしまったのはここだけの話だ。
「なんで貰ってるんだ」
「なんでって、バレンタインだし。あげるって言われたし」
「そうじゃなくて」
「単純に嬉しかったし」
「そうでもなくて!」
「紅蓮うるさい。ていうかなんで怒ってんの? 貰えてないの? あれ? 毎年山のように貰ってたよね?」
「おまっ…お前な……」
急激な脱力感に襲われて膝が崩れかかる。だがなんとかこらえて、紅蓮は力を振り絞った。
真正面から、真剣に、恋人の瞳を覗きこむ。
けれど紅蓮は失念していた。
昌浩もまた、この魔窟で生まれていたのだということを。
「お前は俺にくれないのか」
昌浩はきょとんとして、それからからりと笑った。
「なに言ってんの、バレンタインは女子が男子に贈るもんなんだろ? 俺が用意するわけないじゃん」
「あいつはゾーマ(闇)だった……!」
「誰がダークドレアムでデスタムーアでゾーマだ馬鹿者。ドラクエを知らん閲覧者が置いてけぼりをくらっているではないか」
すぱんと小気味良い音を立てて紅蓮の頭がはたかれる。二人用鍋を挟んだ先の勾陳は空になったグラスを掲げて、「すみませーん、レモンサワーお願いしまーす」と店員に声をかけた。焼酎ロック片手に突っ伏している紅蓮に冷たい眼差しをちらりと向けるが、すぐにいそいそと豆乳鍋の中身を小鉢によそう。
「大体お前は昌浩に夢を見過ぎているんだ。あいつは確かに天使のように可愛らしいが中身はお前より男らしいぞ」
「……勾、酔ってるのか」
「少しな」
店員からレモンサワーを受け取り、ちびりと炭酸を舐め、彼女はふふんと笑んだ。
「そもそもお前が受け取る側に固執していたのが悪い。折角なんだからお前から昌浩に渡してやればよかったんだ。作戦ミスだな、騰蛇よ」
「なんだか珍しく優しいな」
「珍しくとはなんだ。わたしはいつでも優しいぞ」
どの口が、と飛び出そうになる言葉をなんとか押し留めて、紅蓮は勾陳を窺った。
親友(と紅蓮は思っているが、勾陳に言わせると悪友らしい)の彼女はバレンタインの前日に一泊二日で旅行に行っていた。同行者は天后だったらしい。その旅行から帰ってきてからというもの、彼女は恐ろしいほど上機嫌を保っている。
なんといっても、落ちこんでいる紅蓮をこうして飲食店に誘うくらいには機嫌がいいのだ。
普段なら昌浩の件に関してはすげなく足蹴にされてポイ、くらいの勢いだというのに、一体なにがあったのだろうか。聞きたいのは山々なのだが、なぜだか聞かないほうがいい気がして、紅蓮は見て見ぬ振りを続けていた。
「恋人持ちなのに負け組か。侘しいものだな」
「負け組言うな。お前だって同じようなもんだろう」
「残念、実はわたしは勝ち組なんだ」
思わず、紅蓮は勾陳をまじまじと見つめてしまった。
長年の付き合いだが、彼女に男の気配を感じたことはなかった。学生時代に言い寄られているのを目撃したことはあるが、その時も告白を断っていた。昔から一人だけ大人っぽかったから、ガキくさい同級生は好みじゃないのだろうなと勝手に思っていたのだけれども。
「バレンタインに天后と旅行に行ったのはお前も知っているだろう」
「ああ……」
「その時に告白してヤった」
紅蓮は絶句した。
ようやく舌が回るようになったのは、十秒ほど間を置いてからだった。
「まだしてなかったのか……?!」
「おい」
「いや、てっきりしてるものだと」
「おい」
天后は高校時代からの勾陳の親友だ。優しい性格の美女で、物事をはっきりさせたがる勾陳とは対照的な女性である。二人は高校を卒業してからも何かにつけて一緒に遊んだり外泊したりして仲睦まじかったので、紅蓮は密かに彼女らを疑っていた。
とはいっても、高校時代天后はとある男を想っていたのだが。
「天后はあの野郎が好きだったんじゃなかったのか」
「いい加減名前を言ってやれ。そうだな、天后は青龍を好いていたぞ」
「……お前、確か天后の相談にのってたよな」
「うん、そんなこともあったな」
「その頃もう好きだったのか?」
「ああ」
ぱちぱちと泡を噴き出すグラスの中身を、勾陳は遠い目をして覗いた。
「青龍に振られて泣いている天后があんまり可愛いものだから、つい惚れてしまってな」
「ついなのか……」
「恋なんてそんなものだ。お前だってそうだろう」
言われて、紅蓮は昌浩と初めて会った時のことを思い返してみた。
小学生だった自分は、露木の腕に抱かれて眠っている赤ん坊の昌浩を、見て。
「……俺はペドだったのか……?」
「成長するのを待っているんだからペドではないだろう。異常性愛と呼ぶには今ひとつパンチが足りないようだし」
「そういう問題か?」
「どっちかというと光源氏に近いと思うぞ。お前も大概気の長い男だな」
「――俺はあいつみたいにとっかえひっかえはしないぞ」
「それは重畳。もし実行したら刺し殺してやるところだ」
にやりと朱唇を吊り上げて、勾陳は鮮やかに微笑んでみせた。