「お菓子をくれなきゃいたずらするぞ」
玄関に出てみれば顔をあわせた第一声がそれだったので、昌浩は無言でドアを閉めた。
「まあまてまてまてまて」
「絶対待たない! てゆーか手離せ! てかそもそも、なんなのそれ!」
「それとは?」
「頭についてるの!」
「ハンズで買ってきたんだが」
「入手経路なんて聞いてなーい!」
片やドアを閉めようと、片やドアを閉められまいと玄関口で攻防が繰り広げられている。紅蓮に比べると圧倒的に腕力で負けている昌浩は、片足をドア横につけてふんばりながら幼馴染に叫んだ。
「何その耳。犬、猫?!」
「犬じゃない狼だ」
「変わんないって!」
学校から帰ってきてゲームをしていたらインターホンが鳴ったので、確認してみれば鳴らしたのは隣の家に住んでいる幼馴染の紅蓮だった。昔からの付き合いなので、わざわざインターホンを介さずともいつものように無断であがりこんでくればいいのにと思ったのだが、両手が塞がっていてドアを開けることができないと言われ、玄関に向かったらこの始末である。頭に獣の耳をつけて「いたずらするぞ」と言ってくる知人など知人と認めたくない。よって昌浩は見なかったことにしてドアを閉めようとしたのだが、紅蓮は執拗に食い下がり、今に至る。
「よく聞け昌浩」
「やだ」
「今日はハロウィンなんだ。ハロウィンとは子供たちが怪物に仮装し『トリックオアトリート』と言って近所から菓子を貰うという西洋の行事なんだ。日本では表立って普及してはいないが水面下ではかなりの知名度を誇っている。ちなみに『トリックオアトリート』というのは、訳すとさっき俺が言った『お菓子をくれなきゃ』」
「『いたずらするぞ』?」
「そうだ」
思わず脱力しそうになる身体を気力で支えながら、ハロウィンなどこれっぽっちも知らなかった昌浩は早くも疲労し始めてギブアップを訴える腕に鞭を打った。
「仮装って、じゃ紅蓮はなんの仮装なのさ」
「狼男だ」
「送り狼の間違いじゃないの」
「昌浩っ、お前いつの間にそんな単語……」
なにやらショックを受けたらしく紅蓮の力が緩む。その隙に昌浩はドアチェーンをかけ、ようやくドアから離れてへたりこんだ。ぜいぜいと息を切らして汗を拭っていると、紅蓮が狭い隙間から恨みがましく視線を投げてくる。とっくに成人しているはずなのに、紅蓮は昌浩が関わると何故か子供っぽくなるので、昌浩はどうも彼が年上だということをついつい忘れがちになってしまう。
「こら、誰にそんな言葉を教えられた。怒らないから言え」
「勾陳だよ」
「………あいつ………」
「昌浩、さっきから何を騒いでいる。頭にそのつく宗教団体でも来たのか?」
ぎりぎりと紅蓮が歯軋りする。相変わらず忙しい奴だなあと昌浩が半分感心しながらそれを眺めていると、その背に訝しげな声がぶつかった。振り返れば、階段の途中から弟の玄武が顔を出している。昌浩はこれ幸いとばかりに玄武を指差すと大声を出した。
「玄武いいところに、110番して!」
「……騰蛇ではないか。通報してどうするのだ」
「こんな人俺知らないもん。変質者の知り合いなんかいないもん」
玄武は憐れみの目で隙間から顔を覗かせる紅蓮を一瞥すると、ほどほどにしておけ、と言い残して階下の居間に行ってしまった。お茶を飲みに降りてきたらしい。十歳以上年下の玄武にあんな眼差しを向けられてむっとしないこともなかったが、そこはそれ、紅蓮は大人の矜持で持ち直し昌浩に再度向き直った。
「一体何がそんなに気に入らないんだ。たかがハロウィンだぞ」
「たかがハロウィンでいい年した大人が子供にお菓子ねだるの? なんかおかしくない? 立場逆でしょ」
「こうしてちゃんと仮装までしてきたというのに。それとも似合ってないか?」
「話聞けよ。
……似合ってなくはないけど。むしろ似合いすぎる気がしてイヤ」
「というと?」
「お菓子あげる前に狼さんに襲われそうな気がするんだってば」
膝を抱えてジト目で見上げてくる昌浩の瞳は不審の色に染まっている。思わず言葉に詰まってしまい、紅蓮は無言で視線を逸らした。実は昌浩の言う通りいたずらする気まんまんでチャイムを鳴らしたからである。突然来襲してびっくりさせ、用意も何もないところをそのままがばーっといく予定だったのだが、昌浩のガードが予想以上に固かったのが誤算だった。
数秒の沈黙の後、紅蓮は昌浩に満面の笑顔を向けた。
「何を言う、俺がそんなことをするわけがないだろう」
「今の間はなんなのかな」
「気にするな」
「やっぱりうさんくさい」
昌浩は再びドアの取っ手に手をかけるとひっぱった。対抗して紅蓮が鍵をかけさせないようさっと隙間に素早く足先を突っこむ。どうも彼の中ではなんとしても侵入して昌浩にいたずらをするのが目的となっているらしい。さっさと避難してしまった玄武がまだここにいれば、「そこまでしなくてもいいのではないのか、毎日会うのだし」と言ってくれたのだろうが、悲しいかな、現在適切なツッコミをしてくれる人間はこの場にいないのであった。
「ちょっと……あんまりしつこいと、本気で通報するよお隣さんでも」
「昌浩、反抗期なのか? 最近冷たいぞお前」
「誰がそんな態度取らせてるのかちょっとは考えようね」
「考えてもわからながっ!?」
突如紅蓮の額ががいんと愉快な音を立ててドアに激突した。反動でドアがばたんと閉まり、向こう側で昌浩が「え? 何? どしたの?」と控えめに呼びかけるが、紅蓮の脳にはすでにその声は届いていない。
紅蓮の後頭部に白煙を上げながらめりこんでいる手刀の主は、重いため息をつきながらその尻を蹴った。
「起きろ変質者。今なら五分以内に退去することで許してやる」
「勾……おまっ……人を殺す気……」
「虫の知らせがするから天后との約束を蹴って来てみれば……しかもなんだ、犬耳やら尻尾までつけて」
えっ、尻尾までつけてたの、とチェーンを外してドアを開けようとしていた昌浩が呟く。若干引いたようだ。再び閉ざされたドアにすがりながら立ち上がって、紅蓮は勾陳に食ってかかった。
「いきなり何をする勾! それに誰が変質者だ、俺はごくごく一般的な感性を持つ善良な普通の市民だ。それをつかまえて変質者呼ばわりはやめてもらおう」
「その姿で言われても全く説得力がないのがわかっているのか? まあいい、遅かれ早かれ捕まる身だからな……」
「なんだと?」
勾陳が無言で顎をしゃくる。彼女の視線の先に目をやると、門扉のそば、いささか青褪めた顔持ちの天后が、今まさに「もしもし警察ですか? 不審者が――」と電話をかけている最中だった。
「て、天后やめろ!」
ひっ、と怯えて天后が身をすくませる。彼女の手の中の携帯電話を奪い取ろうと紅蓮は足を踏み出しかけたのだが、瞬間、すぱんと絶妙なタイミングで勾陳に足を払われそのまま派手に転倒した。勾陳は呆れたように頭を振ると、倒れた紅蓮を跨ぎ、半分泣きかけている天后の手をそっと握りしめた。
「もう大丈夫だ、心配は要らない。……だが、こんなことになるだろうからお前を連れてきたくはなかったんだがな」
「いいの勾陳、気にしないで。弟くんが心配だからって無理矢理ついてきた私が悪かったんだもの……」
「馬鹿を言うな、悪いのは騰蛇ひとりだ。……おや、電話をかけた先が間違っているぞ、これは救急だ」
「やだ、私ったら!」
女二人はきゃっきゃと姦しく笑い声を立てている。地面に転がっている紅蓮のことなどもう視界に入っていない。空しくタイルの上を這う蟻を見つめていた紅蓮は、しかし背後でがちゃりとドアが開く音に反応してがばりと身を起こした。出てきた昌浩はサンダルをつっかけて寄ってくると、紅蓮の横にちょこんとしゃがみこむ。眉尻を下げ、「はい」と何かを差し出した。
その手にあったものは、せんべい。
「……栗羊羹もあるけど食べる?」
「……………茶もつけてくれると嬉しい」
よしよし、と優しくなでられ、紅蓮のハロウィンは終わった。